京都市指定・登録文化財−美術工芸




こうほんちゃくしょくそうろさんこしょうかかんしんをおうのず よさぶそんひつ
絖本著色草廬三顧・蕭何追韓信図 6曲屏風 与謝蕪村筆
両隻とも「礼」を主題とした作例。絖(ぬめ)と呼ばれる繻子地の絹に描かれた本図は,蕪村50歳前後の屏風講時代のもの。

ほうじょうしょうへきが いけのたいが・よさぶそんひつ
方丈障壁画 池大雅・与謝蕪村筆 
明和年間(1764〜72)に,南画を代表する二人の画家,即ち大雅(1723〜76)が方丈の上間二之間を,蕪村(1716〜83)が室中・下間二之間の障壁画を制作。

けんぽんちゃくしょくあしかがよしてるぞう
絹本著色足利義輝像
若くして松永久秀に攻め殺された室町幕府第13代将軍足利義輝(1536〜65)を描いたもの。土佐光吉とも推定される源弐制作の紙形(京都市立芸術大学所蔵)を粉本として,もう一つの義輝像(国立歴史民俗博物館所蔵)と相前後する時期に制作されたと推定される。画面の細密な描写や華麗な衣装に見所があり,当時の土佐派画家の肖像画制作の水準の高さを示す作例として貴重。

けんぽんちゃくしょくいしんすうでんぞう
絹本著色以心崇伝像
以心崇伝(1569〜1633)は徳川幕府の外交事務や寺社政策に協力するなど,幕府草創期の最高顧問的存在として君臨し,「黒衣の宰相」とも称される。本図の筆者は款記から狩野探幽の法眼時代,即ち寛永15年(1638)末から寛文2年(1662)までの間の制作と判断され,崇伝没後の遺像であることがわかり,崇伝の肖像画の中でも群を抜く出来栄えを示す。

けんぽんちゃくしょくいしかわじょうざんぞう
絹本著色石川丈山像 
石川丈山(1583〜1672)は徳川家の家臣で,大阪の陣の後に出家し,京都で藤原惺窩(ふじわらせいか)から儒学を学ぶ。晩年の寛永18年(1641)に一乗寺に詩仙堂をつくり,読書や詩作のうちに風雅に富んだ隠遁生活を送った。本図は丈山80歳頃の姿を描いた,探幽の斎書き時代(1635〜60)の最末期の作と推定される。

いたえちゃくしょくわしたかず わたなべしこうひつ
板絵著色鷲鷹図 渡辺始興筆 
本扁額は,松樹にとまる鷹と狸を捕らえた鷲を一対の画面に配したもの。峰定寺の中興・元快の25回忌である宝暦元年(1751)に当時の住職深快により奉納された。鷲等を描く筆法には狩野派,土坡の形態には琳派の影響が見られる,渡辺始興(1683〜1755)の最晩年の作。

もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう
木造十一面観音立像
浄楽堂に安置される,ヒノキ材を用いた一木造の像。すらりとした体躯で立ち,面相は優しく,衣文には美しい間合いが図られている。奈良時代以来の古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ9世紀後半から10世紀前半にかけての美作。なお,当初の板光背を残している点も貴重。

もくぞうぼさつはんかぞう
木造菩薩半跏像
寂蓮法師(1139〜1202)ゆかりの寂蓮寺の遺物と伝える像。眼,鼻,口を小ぶりに,四肢を細身に造る点は平安時代最末期の華奢な様風を示しているが,豊かな宝髻,リアルな髪筋の彫り口や肉身の膨み,動きをはらんだ衣文等には鎌倉新様式の影響が認められる。12世紀末〜13世紀初の作。

もくぞうびしゃもんてんりゅうぞう
木造毘沙門天立像
少年のような面差しをもち,平安時代後期の様式を基調にした穏やかで気品のある像。しかし,特に腰以下は太造りで,裳は動きを見せ,表面の各所に細かい部材を加える等,鎌倉時代の表現,手法も認められる。以上,新旧両様を取り混ぜて,鎌倉時代初期に制作されたと考えられる。

もくぞうてんぶぎょうりゅうぞう
木造天部形立像
念仏堂に安置されていた諸尊の一つで,等身大の像。穏やかな相貌や身のこなし,花形の彫り文様の手法など,全体的に平安時代後期の様式が顕著に認められ,12世紀の制作と考えられる。平安時代後期の天部像としては佳品の部類に属する。

もくぞうしょうかんのんぼさつざぞう
木造聖観音菩薩坐像
柔らか味のある垂髻,細く鋭く彫られた眼,面長な顔つき,丸味のある衣文と鎬を立てた線的な衣文を用いる。三千院往生極楽院の阿弥陀三尊像の脇尊像と極めて近い作風を示し,同一工房の仏師により三尊像と近い平安後期に制作されたと考えられる。蓮肉,蓮弁に当初のものを残し貴重。

もくぞうあみだみょらいざぞう
木造阿弥陀如来坐像
大神宮社に隣接する神宮寺に安置されている像。螺髪は細かく,当初の光背の彫出花文と共に繊細な趣を呈す。一方,面貌や肉身に宿る現実感や,型にはまった配置を避けようとする丸みのある衣文の表現等に鎌倉時代の特色が現れている。前代の作風からの穏やかな移行を示す鎌倉初期の作。

もくぞうあみだにょらいざぞう
木造阿弥陀如来坐像
本像は白河法皇が造営した蓮華蔵院の旧物と伝える。螺髪を小粒に整然と刻み,頬の膨らみや胸,腹,背などの肉付けも柔らかに表現されている。頭体の比例は調和がとれ,量感も程よく,全体に見られる穏やかな表現は,定朝様の特色を示すと同時に繊細さへの傾向も見せる平安後期の作。

もくぞうやくしにょらいざぞう
木造薬師如来坐像
大原薬師堂の本尊として守り伝えられたもの。頭部は丸く盛り上がる肉髻を表し,螺髪を小粒に整然と刻む。目鼻立ちは小づくりで,彫りは浅く,口元をつつましく表現する。体部は胸厚,膝高ともに薄く,衣文線も極めて浅彫である。繊細な作風を示す典型的な藤原時代末期の作である。

もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう
木造地蔵菩薩立像 
頭体の均衡も写実的でバランスがとれた尊像である。衣の全体に彩色の跡が認められ,特に腹前,右袖外側などに蓮華唐草文や花丸文がよく残されている。体内銘から,本像は尊慶が正嘉2年(1258)に制作したものと確認される。尊慶なる仏師についての詳細は不明だが,13世紀中葉を活躍期とする慶派に連なる仏師と考えられ,本像は制作年,作者を共に明らかにする鎌倉時代の基準作例として貴重な作品である。

もくぞうもんじゅぼさつざぞう もくぞううてんおうりゅうぞう もくぞうさいしょうろうじんりゅうぞう もくぞうぶっだはりさんぞうりゅうぞう
木造文殊菩薩坐像・木造優?王立像・木造最勝老人立像・木造仏陀波利三蔵立像
金戒光明寺三重塔(寛永11年・重要文化財)に安置されている文殊菩薩像他全4躯。獅子(後補)に騎乗する文殊菩薩を中心に,手綱をとる優でん王・仏陀波利三蔵・最勝老人の三眷属(けんぞく)で構成されているが,もとは現在欠失している善財童子を併せて五尊像であり,中国の五台山に影現するという五台山文殊を彫刻によって表した作例である。慶派の流れをくむ仏師による鎌倉時代末期の五台山文殊であり,また彩色の保存状況が良い点においても貴重である。

もくぞうびしゃもんてんりゅうぞう
木造毘沙門天立像
寄木造・玉眼のほぼ等身大の毘沙門天像。鞍馬寺には,その草創の際に毘沙門天を安置したと伝えられることから多くの毘沙門天が残る。本像はその内の1躯。毘沙門天(多聞天)像は通常,多宝塔を捧げる姿であるが,本像は戟(げき)を握って左手を振り上げ,右手を腰に当てて左足を踏み出すという鞍馬式と称されるポーズをとる。13世紀前半の慶派(けいは)の優れた毘沙門天像として貴重。  

ししゅうあみださんぞんらいごうず
刺繍阿弥陀三尊来迎図
光背を背にした立像の阿弥陀如来と,蓮台を持つ観音菩薩,合掌姿の勢至菩薩が雲に乗り飛来する通例の三尊来迎図を刺繍で表した,総縫いの繍仏。表装部分にも刺繍の蓮唐草文を散らす。刺繍阿弥陀三尊来迎図の遺品は多く伝えられているが,その中で本図は像容の整った室町時代の典型的な遺品であり,保存状態も良好である点において貴重。

ししゅうしゅじあみださんぞんず
刺繍種子阿弥陀三尊図
阿弥陀来迎の図様を種子で表した総縫いの繍仏で,中央の円相内蓮台上に阿弥陀如来の種子「キリーク」,向かって右に観音菩薩の種子「サ」,左に勢至菩薩の種子「サク」を配す。本図は,江戸期の修理により画面右側が切り詰められているものの,鎌倉時代の浄土教系の繍仏においては,色調などの保存状態も良好である点,貴重な作例。

ししゅうしゅじあみださんぞんず
刺繍種子阿弥陀三尊図
阿弥陀三尊像を種子で表した総縫いの繍仏。図様が通例の種子阿弥陀三尊繍仏とは大きく異なっており,阿弥陀の種子が中世の板碑などにも散見される特異な書体を持つ。また,独鈷と五鈷の三昧耶形や三面宝珠を飾る点から,真言系の作例に属することを示す。表装部分を失ってはいるものの室町時代の遺品として良くその色調を伝えている。

ぼんしょう
梵鐘 
本梵鐘は撞座の位置が低く,駒の爪の出が大きいなど,室町時代の特色を顕著に備える。また,銘文から永享7年(1435)に大工藤原圀次が当来迎院の鐘として制作したことがわかる。圀次は広隆寺鰐口(1449)の作者藤原国継と同一人物と考えられ,藤井姓鋳物師から藤原姓の国久へと続く系譜の中に介在した鋳物師と考えられる。

いわくらともみかんけいしりょう
岩倉具視関係資料
明治維新の中心的役割を果たした岩倉具視(1825〜83),及び具視周辺の人物に関する資料。(H12.6に,一部が重要文化財指定となる。)

こううんじとうふくもんいんかんけいしりょう
光雲寺東福門院関係資料
本資料は,大別して寛文年間(1661〜73)の光雲寺の再興に力を尽くした東福門院 (1607〜78)関係のもの,再興時及びその後の光雲寺の寺歴に関するもの,再興時の住持である英中玄賢(1627〜95)関連の遺品からなるもの。

もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう
木造十一面観音立像
かつて,旧観音堂の本尊として安置されていた半等身の像。ヒノキ材を用いた寄木造で,彫眼の技法によって制作されている。後補の彩色によって像容を損なっているが,面部や衣文の流れなどに室町時代の特色がうかがえ,観音堂の成立時期を考える資料的として貴重なものである。

もくぞうやくしにょらいりゅうぞう
木造薬師如来立像
ヒノキ材を用いた寄木造で,漆箔,彫眼で仕上げられる。高い肉髻や穏やかな衣文の流れなどに平安時代後期の様風をとどめているものの,鎌倉時代の新様の影響も見られるところから鎌倉時代初期の作と思われる。頭部と体部の接合部にかなり損傷が見られるが,当時の作例として貴重。

おかだけもんじょ
岡田家文書
丹波,近江に境を接する山間荘園久多荘に伝わる文書で,山間荘園村落の構造を知るうえで重要。なかでも久多に十人百姓と称される上層農民が存在したことを示す文書等が注目される。

かわばたけもんじょ
川端家文書
永正年間(1504〜21)以後,川端家と称して餅を商い,禁裏にも供御した川端家に伝わるもの。永正9年(1512)の室町幕府奉公人奉書を最古とする中世文書から明治までの文書を含む。

おおぞうなかまもんじょ
大惣仲間文書
鞍馬法師仲間の一つ,大惣仲間の文書で室町時代末期から明治時代のもの。半僧半俗的な性格をもっていた大惣仲間と当時の鞍馬の生活を知る上で貴重。

ひがしもとけもんじょ
東本家文書
丹波,近江に境を接する山間荘園久多荘に関する文書で室町時代後期〜江戸時代のもの。山間林業村落の社会組織や経済を理解する上で貴重。

もくぞうじぞうぼさつざぞう
木造地蔵菩薩坐像
全面に檀色(だんじき)の施された代用材檀像による地蔵菩薩坐像である。衣文については全身に尋常でないほど密に配されており,他の衣文表現については,一木造としてはもっとも古式な作風を示す。9世紀頃の古例として貴重な作例である。

しほんきんじちゃくしょくぎおんさいれいず ろっきょくびょうぶ かいほうゆうせつひつ
紙本金地著色祇園祭礼図 6曲屏風 海北友雪筆
金雲により2段に分けられ,上段に祗園祭後の祭の山鉾巡行,下段に神輿3基の還幸が描かれる。
しょいんしょうへきが もりそせんひつ
書院障壁画 森狙仙筆
雪景の中の猿・鹿・猪を温和で濃やかな描法で描いたもの。筆者・森狙仙(1742〜1821)は大坂で活躍した画家で,彼を祖とした森派は円山派と密接な関係にあった。文化4年(1807)以前の制作。

けんぽんちゃくしょくなかがわひでなりふじんぞう
絹本著色中川秀成夫人像
織田信長の家臣・佐久間盛政の娘,虎(1564〜1610)を描いたもの。虎は盛政没後,中川清秀の次男秀成に嫁いでいる。衣装描写の優秀な桃山時代の女性肖像画として貴重。

しほんちゃくしょくぎおんしゃおおまんどころえず
紙本著色祇園社大政所絵図 2曲屏風
祇園社の祭礼の御旅所(おたびしょ)である祇園社大政所が高辻烏丸に所在した頃の姿を描いた作品。たなびく霞と雲によって3つの場面に分けられており,画面右上には山鉾巡行,左上には御輿渡御,そして画面中央には一際大きく湯立神楽(ゆたてかぐら)の神事が行われている大政所が描かれている。中世末期の大政所の詳細が伺える希少な絵画資料として貴重。

きゅうにじょうじょうかんけいのせきぞうぶつぐん
旧二条城関係の石造物群
地下鉄烏丸線建設工事に伴って行われた発掘調査により,旧二条城の石垣として発見されたもの。石垣は自然石の他に,石仏,石碑,五輪塔,礎石,建材などで造られている。

かやのもりいせきしゅつどひん
栢杜遺跡出土品
伏見区醍醐柏森町にある栢杜遺跡を発掘証左した際に出土したもので平安時代後期〜鎌倉時代のものを主とし,このなかには,瓦,土器類の他に多数の建築部材が含まれている。

くらまにのせちょうしゅつどせん
鞍馬ニノ瀬町出土銭
左京区鞍馬二ノ瀬町から石垣工事中に大量の埋蔵銭が発見された。緡銭(さしぜに:1貫文を緡縄で通したもの)にして曲物に入れて埋められた中世の埋蔵銭で,凡そ4万枚前後あったと考えられる。最古銭は紀元前187年初鋳の八銖半両,最新銭は1310年初鋳の至大通寳で,種類は117種。

おくむらけとうどうざかんけいしりょう
奥村家当道座関係資料
最後の惣検校を勤めた奥村家に伝来し,琵琶法師を中心とする盲人組織の当道座に関する資料。

じんけきょうますざかんけいしりょう
神家京秤座関係資料
本資料は,江戸幕府が衡制統一のために設けた秤座の西国責任者であった神家に伝わったもので,江戸時代以降近代に至る秤や同製作用具,古文書等からなっている。

しつばんしゃしんおよびけいらんし くまがいなおたかぞう
湿板写真及び鶏卵紙(熊谷直孝像)
直孝は鳩居堂7代目当主で幕末期の勤皇家としても知られている。日本においては,銀板写真に続いて湿板写真技術が長崎にもたらされ,安政5年(1858)には日本人による湿板写真撮影が行われた。本資料は安政6年,直孝42歳の折に板倉槐堂(1822〜79)により撮影されたもの。

ろっかくちょうもんじょ
六角町文書
祗園祭山鉾町の一つである六角町の文書で,江戸時代初期〜明治時代のもの。近世の山鉾町の様子を知る上で貴重。

うらでやまちょうもんじょ
占出山町文書
祗園祭の山鉾町の一つ,占出山町の文書で桃山時代〜江戸時代のもの。中でも文化文政年間(1804〜30)を中心とする町代改義一件についての文書が全体の2分の1を占める。

にしのとういんろっかくやちてつぎけんもん
西洞院六角屋地手継券文
西洞院六角周辺の土地に対する売券,譲状など12通を1巻とした手継文書で,建暦元年(1211)から天文14年(1545)にかけてのもの。

こんどうせいふたつきぞうこつき
金銅製蓋付き蔵骨器
右京区嵯峨から出土した蔵骨器(ぞうこつき)である。中国製褐釉壺(かつゆうこ)と考えられ,これに合わせて製作された金銅製の蓋を伴う。金銅や銅で製作された蔵骨器は,奈良時代の遺品にあるが,陶器の身と金属製の蓋の組み合わせは本品以外に例が無い。また,本品は地中に作られた小石室に納めた後,木炭で覆って埋め戻されていた。類似の火葬墓は稀で,高貴な人物の墓と想定される。本品は,平安時代末期から鎌倉時代初期の金銅製品の製作技術を知る上でも,同時代の埋葬法を考える上でも貴重な遺品である。

いたえちゃくしょくらんていがかいずへんがく いけのたいがひつ
板絵著色蘭亭雅会図扁額 池大雅筆
中国晋代に王羲之主催で,蘭亭に文人42人が集まり,流水に盃を浮かべて作詩したという故事を絵画化したもの。18世紀の南画家を代表する池大雅(1723〜76)32歳の作品。

しょいんしょうへきが でんかいほうゆうしょうひつ
書院障壁画 伝海北友松筆
本障壁画は,大中院の文化年間の修復の際に,建仁寺山内の華渓院から建物と一緒に移されてきたもの。水墨を基調として山水図と芦鷺図が描かれている。桃山時代の巨匠海北友松の極早い時期の作品。

しょうしょいんしょうへきが かいほうゆうしょうひつ
小書院障壁画 海北友松筆
霊洞院は嘉永6年(1853)に再興されており,本障壁画もこの折に他所から移されたもの。画題は松竹双鶴図,唐人物図,花鳥図,草山水図の4種。大中院障壁画と同じく友松の初期作品として貴重。

しろしょいんしょうへきが ごしゅんひつ
白書院障壁画 呉春筆
山間の渓流を瀟洒に描いたもので,写生派転向後,寛政年間(1789〜1801)の呉春の作風を知る上で欠く事の出来ない作。

しほんきんじちゃくしょくちょうせんつうしいしかんたいず はっきょくびょうぶ かのうますのぶひつ
紙本金地著色朝鮮通信使歓待図 8曲屏風 狩野益信筆
近世に計12回日本を訪れた朝鮮通信使のうち,本図は寛永20年(1643)もしくは明暦元年(1655)に江戸城を訪れた使節の様子を描いたもの。

けんぽんちゃくしょくごようぜいてんのうぞう
絹本著色後陽成天皇像
後陽成天皇(1571〜1617)は天正14年(1586)に即位し,慶長16年(1611)に退位され,好学の天皇として名高い。本図は画面左端の印章から,狩野孝信の筆になるものと判断される。また面部に強い隈取りが施されている点などから,孝信晩年の制作と推定され,退位後の上皇像,或いは遺像として描かれたものと考えられる。

けんぽんちゃくしょくこうだいいんぞう
絹本著色高台院像
豊臣秀吉の正室おね(1549〜1624)の肖像画。夫の没年(1598)以後,彼女が出家して東山に高台寺を創建し,高台院を名乗る慶長8年(1603)11月以前に制作されたものと推定される。像主を神殿風の御殿内に配する荘厳化された女性像は元和・寛永期あたりに盛行を見るが,本図はその先駆的な作例。

しほんきんじちゃくしょくとうじんぶつず しほんきんじぼくがかちょうず ざちょうびょうぶ かのうたかのぶひつ 
紙本金地著色唐人物図2,紙本金地墨画花鳥図2 座頭屏風 狩野孝信筆
本座頭屏風は唐人物図と花鳥図を表裏に描き分け,唐人物図では「鐘呂伝道図」と「老子尹喜図」を,花鳥図では「梅に鶯図」と「竹雀図」とを描いている。作風から狩野永徳の次男で,禁裏絵所預として禁裏関係の仕事にも従事した狩野孝信(1571〜1618)の作とされる。狩野派正系画家の筆になる保存良好な桃山期の作例として貴重。

いたえきんじちゃくしょくつなぎうまず かのうさんらくひつ
板絵金地著色繋馬図 狩野山楽筆 
金地に雄渾な裸の黒馬を配したもので,轡(くつわ)などの馬具以外は墨一色で描かれる。豊国社の社僧梵舜の日記「舜旧記」から,本図がもとは2枚1対の絵馬の一つで,慶長19年(1614)に安養寺喜兵衛氏親によって豊国社に奉納されたことがわかる。また,本図は狩野永徳の高弟である狩野山楽56歳の制作であることが銘記等から判明する。

いたえちゃくしょくつりぎつねず にしかわすけのぶひつ
板絵著色釣狐図 西川祐信筆
本扁額は『扁額規範』(文政2年刊)等に記載されるなど古来著名な絵馬で,狂言「釣狐」を主題とし,延享元年(1744)に洛西の井上保富の門弟によって八坂神社に奉納されたもの。江戸の浮世絵界に大きな影響を及ぼした京都の浮世絵師西川祐信最晩年の作。

もくぞうあみだにょらいざぞう
木造阿弥陀如来坐像
頭部をやや小ぶりに引き締め,衣文に翻波的趣向を加えたもので,平安後期の典型的な作例を示す。元は妙法院に後白河法皇の念持仏として伝わったものであり,古くより専定寺が預かったとされる。法皇の造仏の一環をなすものとして,又,漆箔による像内化粧の一例としても貴重な作例。

もくぞうかんのんぼさつりゅうぞう
木造観音菩薩立像
唐からもたらされた香木を延暦7年に桓武天皇の命により最澄が刻んだものと伝え,近世には伽羅観音として信仰を集めていた像。全体に藤原風の優美さを湛えながらも,唐風檀像の面影を見ることができるもので,平安時代後期に旧像を参考にしながら制作されたと考えられる代用檀像。

ししゅうあみださんぞんらいごうず
刺繍阿弥陀三尊来迎図
本作例は合掌念仏する往生者のもとへ,観音・勢至を従えて来迎する阿弥陀如来を表した繍仏。画面右下に屋内で来迎を待つ3人の往生者を小さく配し,下辺には土坡に草木を表す。鎌倉から室町時代にかけて浄土教信仰に促されて製作された阿弥陀像繍仏は個人的な造顕にかかる小画面のものが盛行したが,本作例もそのうちの優品の一つ。

ぼんしょう
梵鐘  
本梵鐘は,もと八坂感神院のもので,当院檀越の旧佐土原城主島津忠寛が購入し,当院を宿舎としたことに対する謝礼として明治3年5月に寄進したもの。室町時代中期の梵鐘としては非常に大型で『蔭涼軒日録』などの資料から,八坂感神院の鐘として延徳4年(1492)6月に鋳造されたことが明らかになる貴重なもの。

うこくだいみょうじんりんじおんさいれいきろく
豊国大明神臨時御祭礼記録(完存本)  豊国大明神臨時御祭礼記録(残欠本) 太田牛一筆
『豊国大明神臨時御祭礼記録』の著者による自筆本。文禄元年(1592)の朝鮮出兵,秀吉入滅,秀吉7回忌の臨時祭礼の次第を詳細に記す。

はんぽんうたいぼん ひゃくばん さがぼん
版本謡本 百番(嵯峨本)
本書は観世流能の謡本で,豪商角倉素庵が慶長10年(1605)頃から10年間にわたって刊行した,嵯峨本と呼ばれる古活字版の一つ。現存する数少ない百番揃いであり,出版文化史上においても価値の高い嵯峨本として貴重。

だいちゅういんもんじょ
大中院文書
大中院書院の海北友松筆山水図襖絵の下張の文書で,天正15年(1587)〜文禄3年(1594)の8年間に集中。当時の京都の庶政や庶民の生活を知る根本資料として貴重。
ぎょうじょほっしんのうにっき
堯恕法親王日記 
堯恕法親王(1640〜95)は後水尾天皇の第10皇子で,8歳で妙法院に入り,のち断続的に3度,通算では約20年間天台座主を務めた。本日記は親王自筆のもので,天台座主に就任した寛文3年(1663)から元禄8年(1695)までの33年分を収める。なお,日記32冊以外に別記類の『江戸御逗留中日次記』『日光御下向日記』『後水尾院尊儀仙洞御経供養記』も指定対象に含んでいる。

きよみずでらこきろく
清水寺古記録
日記類,開帳記録,音信帳面,触留などに大きく分類され,全部で546冊,4巻,1包を数える。なかでも成就院日記220冊は,元禄7年(1694)から文久4年(1864)までの文がほぼ完全な形で残っている。近世の清水寺の様相を知るうえでの基本資料であるとともに,江戸時代に同寺門前に居を構えた庶民の動向もうかがえる資料。

しんにんほっしんのうにっき
真仁法親王日記
真仁法親王(1768〜1805)は光格天皇の兄で,第38代妙法院門跡となり,第214代天台座主にもなっている。親王自筆の本日記は,天明7年(1787)元日から同年8月16日までという短期間の記述ながら,文化人の出入りに関する記述が数多く,当時の京都の文化動向を知るうえで基礎的な資料の一つとして貴重。

ほうこうじだいぶつでんいぶつ
方広寺大仏殿遺物
大仏殿関係が銅製風鐸,銅製舌各1点,鉄製金輪4点,大仏関係が銅製蓮肉片,鉄製光背金具各1点の9点からなる。風鐸と舌に慶長17年(1612)の銘文がある事から,これらは慶長年間末期に豊臣秀頼により再興された大仏殿・大仏の一部と判断される。

わかみやはちまんぐうしゃかんけいしりょう
若宮八幡宮社関係資料
若宮八幡宮社は源氏にとって縁の深い左女牛(さめうし)西洞院に源頼朝が八幡神を勧請し,1社として本格的な体裁を整えたことに始まる。本資料は中世を通じて歴代将軍に篤く保護されてきた当社の社歴を証するもので,特に「足利将軍参詣絵巻」は足利将軍の社参を絵画化したものとして貴重な資料。

あみえ
阿弥衣
長楽寺に伝わる阿弥衣は,第二次世界大戦後,双林寺より譲り受けたものである。天台宗であった双林寺は至徳3年(1384)時宗に改宗し,時宗国阿派の本山となるも,明治期に再び天台宗に改宗した。本資料は銘がないものの,繊維の状態などから歓喜光寺所蔵の阿弥衣とさほど隔たりのない時期に製作されたと推測される。

ばばけもんじょ
馬場家文書
上賀茂社及び中世に上賀茂社の社領とされた六郷に関する文書でもと上賀茂社の社家・馬場家の所蔵。賀茂六郷の中世的形態を知る上で貴重。

まんじゅうやちょうもんじょ
饅頭屋町文書
饅頭屋塩瀬家のあった饅頭屋町関係のもので桃山時代のものが中心。饅頭屋町の軒別各坪数や町家間数書上等,町や町屋の形態,構造,社会生活を示す資料が含まれている。

ぎおんえやまほこたいかん わかはらふみあきじひつぼん
祗園会山鉾大鑑 若原史明自筆本
祇園祭前祭17基,後祭2基についての歴史,行事,装飾品など多岐に渡る分野を網羅した調査報告書。著者若原史明(1895〜1949?)は祇園祭の調査をライフワークの一つとした在野の歴史家。本書を昭和2年(1927)頃から執筆し始め,同4年〜23年にかけて脱稿するなど祇園祭の調査に勢力を傾けた。

しんでんしょうへきが かのうますのぶひつ
宸殿障壁画  狩野益信筆
宸殿6室全てにわたって,人物・花鳥の金碧画が描かれる。筆者は,探幽の弟子の中でも最も忠実に探幽の様式を受け継いだ狩野洞雲益信(1625〜94)。

ほんぼくがうんりゅうず ろっきょくびょうぶ かいほうゆうしょうひつ
紙本墨画雲龍図 6曲屏風 海北友松筆
雲間に隠顕する巨大な龍が,画面上端からその頭部をのぞかせる構図は,桃山後期の大画面作品にしばしば認められる。作風・落款・印章から,雲龍図を得意とした友松の晩年の作品。

あみえ
阿弥衣 
時宗(じしゅう)独特の法衣である阿弥衣は,麻をむしろ編みにした質素なもので,時宗僧にとって象徴的な意味を有していた外套衣である。本資料は,最も古い法脈を有する六条道場・歓喜光寺に伝えられたもので,元亀3年(1572)の年記があり,遊行派の総帥である遊行上人(ゆぎょうしょうにん)第30代他阿有三上人の所持していた衣である。

ふくいけきょうますざかんけいしりょう
福井家京枡座関係資料
江戸幕府が量制統一の為に設けた枡座の西国責任者・福井家に伝わった資料(H2.6に,本資料2054点の内, 2040点が重要文化財に指定。)。京都市指定分14件は下記のとおり。1.京枡 2口,1.文書記録類 1通・8冊,1.絵画類 1双,1幅,双幅。

しんでんしょうへきが かのうますのぶひつ
宸殿障壁画 狩野益信筆
宸殿6室全てにわたって,人物・花鳥の金碧画が描かれる。筆者は,探幽の弟子の中でも最も忠実に探幽の様式を受け継いだ狩野洞雲益信(1625〜94)。

もくぞうびしゃもんてんりゅうぞうりゅうぞう
木造毘沙門天立像
近世には山科厨子奥村の総鎮守として永正寺に安置されていた像。口を固く結び,左脇を締める一方,右手は袖を翻して動きを見せ,全体を巧みにまとめる。鎌倉時代初期慶派の写実的作風の流れに属すものの,平板で長めの胴や抑揚に乏しい面部の表現等から,制作は鎌倉時代末期。

おぎのけもんじょ
荻野家文書
雑色を勤めた荻野家に伝わる文書で桃山時代〜明治時代のもの。特に雑色の勤役や規式等を記した雑色要録は貴重。


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