京都市指定・登録文化財−建造物


たいしょうぐんじんじゃほんでん
大将軍神社本殿
一間社流造・こけら葺。天正19年(1591)造営の上賀茂神社摂社片岡神社本殿を寛永年間(1624-1644)に移建したもので,上賀茂・下賀茂社関係の社殿では現存最古とみられる。境内は鎮守の森の景観をよくとどめており京都市文化財環境保全地区に指定されている。

いわさけじゅうたく
岩佐家住宅
岩佐家は上賀茂神社に仕えていた社家で,主屋・土蔵・表門・土塀が残り,庭園が配される。主屋は天明5年(1785)にはほぼ現在の間取りとなっていた。鳥居形の玄関や供待ち,束と貫で飾る妻面の外観などに社家住宅の特色が見られる。土蔵は宝暦14年(1764)の建築。

うめつじけじゅうたく
梅辻家住宅
当家は上賀茂神社に仕えた社家である。建物は居室部と座敷部からなり,天保9年(1838)頃にはほぼ現在の形になっていた。居室部は正面に式台を設け,妻面は柱と貫で飾る。座敷部は座敷と次の間からなり,座敷は押板風の床の間と付書院を備えて花頭窓を開く古式で格式のある意匠。

くさかべ(しきぶ)けじゅうたく
日下部(式部)家住宅
明和9年(1772)の建築で当初は座敷など2室からなる角屋が付属していた。入母屋造・平入で,シモンデ・カミンデ・ダイドコロ・ナンドの床上部と土間からなる。カミンデには付書院が備わる。小屋組の構造や開放的な開口部など建築年代に比べて進んだ形式である。

くさかべ(だいすけ)けじゅうたく
日下部(大助)家住宅
明治27年(1894)に主屋や旧六畳蔵が建築され,大正9年(1920)に新座敷が増築された。主屋は奥に居室部を建て,手前に座敷部を配す。農家の間取りの型を一部備えた平面をもっているが,近代的な技術を採用するなど当時の民家建築としては,かなり進んでいる。

いせきけじゅうたく
井關家住宅
当家は上賀茂神社の社家である。主屋は正面に鳥居型の内玄関と式台を並べ,妻面を柱と貫で飾る。座敷床の間の奥行が浅いなど古式な様式から,江戸時代後期の建築とみられる。中央に建ち上がる望楼風の3階は明治後期の増築である。他に土蔵や表門が残る。

むくもとけじゅうたく
椋本家住宅
主屋は嘉永4年(1851),米蔵は天保15年(1844)の建築。主屋は京都府中部から滋賀県西部にかけての山間部に分布する北山型に属し,妻入で内部は棟行方向に2分されて各室が2列に並ぶ。間取りが整形で柱間装置が開放的であるなどの点に時代的特徴がみられる。

てんねいじ
天寧寺
天寧寺は曹洞宗の寺院である。本堂は文化7年(1810)に上棟された方丈形式の建物である。正面に向拝を設け,前列3室を仕切らずに1つの空間とし,後列中央間に来迎柱を立てて置仏壇とする。このような構成は,同じく禅宗の一派である臨済宗寺院の方丈建築とは異なるものである。書院(弘化2年・1845)は,上の間と下の間からなり,西北隅に一間四方の室が張り出す。表門は安政4年(1857)建築の薬医門である。これらの建物は市内に数少ない曹洞宗の近世寺院建築として貴重である。

きたのてんまんぐうえましょ
北野天満宮絵馬所
現在の絵馬所は元禄13年(1700)に建てられた。当初は現位置より北に建ち,屋根も木賊葺であったが,現在は桟瓦葺である。京都に現存する絵馬堂のなかで最も古く,規模も大きいもので,江戸時代中期の代表的な絵馬堂である。

おくたにけじゅうたく
奥溪家住宅
主屋は,東西棟の台所と書斎部分の南側に,玄関と座敷棟が突出している。寛文6年(1666)から正徳6年(1716)の間に建てられた台所部分を原型に,幕末頃にほぼ現在の姿になった。長屋門は享保11年(1726)建築の茅葺屋根建物である。これらは,旧御典医の住宅遺構として貴重である。

じょうふくじ
淨福寺
本堂は享保18年(1733)の造営で,礼堂と仏殿を合の間で接続した複合建築である。本堂の東には釈迦堂,後方には玄関と方丈が並ぶ。境内の南と東には門が開く。朱塗の東門は「赤門」と呼ばれている。これらは近世浄土宗寺院の伽藍配置や建築形式をよく伝える。

にほんせいこうかいせいあぐねすきょうかいせいどう
日本聖公会聖アグネス教会聖堂
平安女学院の礼拝堂及び日本聖公会京都教区の大聖堂としてJ.M.ガーディナーの設計で明治31年(1898)に建築された。レンガ造・三廊式バシリカ型平面で,八角平面の洗礼室・鐘塔・司祭室を設ける。外観は重厚だが内部は柱や小屋組の部材が細く簡素な意匠である。

にいじまじょうきゅうてい
新島襄旧邸
同志社の創立者新島襄の自邸として明治11年(1878)に建設された。設計は宣教医テーラーの助言のもとに新島自身が行ったとされる。建物は木造2階建で,外観はコロニアルスタイルを基本としている。いわゆる洋風建築に属するものの,畳敷や箱階段などの伝統的手法も用いられている。

りゅうほんじ
立本寺
立本寺は日蓮宗旧一致派の本山である。本堂(寛保3年・1743)は日蓮宗七間堂の典型的な構成で豊かな装飾が特徴。刹堂(文化8年・1811)は小規模だが本格的な建築である。他に客殿(享保13年・1728)や表門(安永7年・1778),鐘楼(寛文年間・1661-1673)が残る。

ほうきょうじ
宝鏡寺
臨済宗の尼門跡寺院。書院は寛政10年(1798)の上棟で,御座の間・次の間等の諸室を配す。襖絵は天保4年(1833)に円山派の絵師により描かれた。文政13年(1830)には本堂・使者の間・玄関が建てられ,表門もこの時期のものとみられる。その後弘化4年(1847)に阿弥陀堂が御所の建物の古材を用いて建てられた。これらは尼門跡寺院の構成をよく伝えた上質な建物である。

かんのんじ
観音寺
当初は北野社の神宮寺であったが,現在は真言宗泉涌寺派に属している。当寺の本堂と礼堂は,造合でつながれた複合形式の建物である。17世紀前期に本堂が建てられ,元禄7年(1694)に礼堂と造合が本堂正面に増築された。本堂は丸柱上の組物を出組とする3間四方の本格的な構造形式の仏堂である。一方参拝空間である礼堂は,角柱に舟肘木をのせる簡素な形式で,仏の空間である本堂とは明確に建築手法を変えている。

きょうとしこうこしりょうかん(きゅうにしじんおりものかん)
京都市考古資料館(旧西陣織物館)
西陣織の陳列を目的として,大正3年(1914)に本野精吾の設計により建築された。昭和54年に構造補強が行われたが,外観及び貴賓室の内装は当初の姿をよく残している。簡潔な外形や単純な壁面意匠,精巧かつ抽象化された細部意匠など近代主義建築の先駆的作品。

だいまるう゛ぃら
大丸ヴィラ
昭和7年(1930)に大丸社長宅としてヴォーリズ建築事務所の設計で建てられた。鉄筋コンクリート造3階建で外壁上層はハーフティンバーで飾る。内部は捩れ棒状の階段手すりや白漆喰で仕上げられた幾何学模様の天井など凝っている。ほぼ純粋なチューダー様式。

へいあんじんぐう
平安神宮
平安遷都1100年記念に京都市民の氏神として創建された。社殿は平安宮朝堂院の主要部を約8分の5の規模に縮小したもので,木子清敬・伊東忠太の設計により明治28年(1895)に竣工した。近代の伝統的な和風の技術による。

しこぶちじんじゃ
志古淵神社本殿
安曇川一帯に分布をみる志古淵神を祭神とする。現在の本殿は寛文12年(1672)の建築で,屋根が杉皮葺(当初はこけら葺)の三間社流造である。近世の造営だが,蟇股などの様式に古い形態を残している。境内は京都市文化財環境保全地区に指定されている。

だんのうほうりんじ
檀王法林寺
当寺は浄土宗の寺院で,「だんのう」の名で親しまれている。本堂は18世紀中期の造営で,彫刻や彩色等の装飾が多い。西門は寛延4年(1751)建築の朱塗の薬医門である。2棟の霊屋はいずれも江戸時代前期の建築で,それぞれ開山と第二世の卵塔を収めている。

ゆうせんじほんどう
涌泉寺本堂
涌泉寺は大正7年(1918)に本涌寺と妙泉寺が合併してできた日連宗の寺院で,旧本涌寺の寺地にある。本涌寺は天正2年(1574)に開創された檀林で,その講堂が現在の本堂である。6室からなる桟瓦葺の建物で,建築年代は承応3年(1654)頃とみられる。

れいかんじ
霊鑑寺
臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。書院の南寄りの4室と畳廊下は,延宝3年(1675)造営の後西院御所の御休息所・御番所を貞享年間(1684-88)に移建したものである。また玄関も後西院御所旧殿の移建であり,本堂は徳川家斉の寄進により享和3年(1803)に再建されたと伝える。

てんじゅあん
天授庵
天授庵は南禅寺開山の塔所として創建された。客殿は慶長7年(1602)に細川幽斎の援助で再興された六間取り方丈形式の建物である。平面や細部に中世の伝統的な様式がみられる。室中などの襖障子は長谷川等伯の筆になる。表門も客殿と同時期の建物である。

しょうりんいん
勝林院
勝林院は延暦寺の別院であった。現本堂は安永6年(1777)の造営で桁行7間・梁行6間の大規模な建物である。平面は密教寺院本堂の通例に従うが,正面の外陣を吹放ちとし,建ちを高くするなど近世的な特色がみられる。鐘楼は寛永年間(1624-1644)の建築。

まんがんじ
満願寺
満願寺本堂は宝永元年(1704)までに造営されたもので,市内に残る日蓮宗の一般寺院本堂としては古い。桁行3間・梁行1間の身舎の周囲に1間幅の裳階をまわして背面に内陣部を突出し,その後方に土蔵造の奥陣を付設した複合建築である。境内には鐘楼,手水舎・表門・文子天満宮本殿・同拝殿などが残っており,江戸時代中期における日蓮宗の一般寺院の寺観をよく伝えている。

こううんじ
光雲寺
臨済宗南禅寺の境外塔頭である。もとは摂津国難波にあったが,明暦3年(1657)に再興され,寛文4年(1664) に徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮となった東福門院の援助で現在地に移された。仏殿は近世京都を代表する本格的な禅宗様仏殿の一つで,寛文5年に造営された。入母屋造・本瓦葺で,桁行3間・梁行3間の身舎の四周に裳階を配す。内部には禅宗様の須弥壇を中央に,脇仏壇を背面両脇に据える。鐘楼は寛文11年の建築で,柱には少し内転びをつける。現在は仏殿の北西にあるが,当初は仏殿の南西にあった。

こまいけじゅうたく
駒井家住宅
当住宅は京都帝国大学教授であった駒井卓博士の住宅として昭和2年(1927)に建てられた。主屋は木造2階建てで,外観はスパニッシュ様式を用いており,北側に付属棟,東側にテラスを配す。内部は1階に玄関ホール・居間・食堂・和室を配し,2階に寝室・書斎等を設けており,洋風住宅プランの一角に和室を加えた折衷的な間取りとなっている。米国人建築家ヴォーリズが円熟期にさしかかった時代の住宅建築で,市内に残る昭和初期の中規模な住宅としては,質の高い洋風住宅である。

ふじいさいせいかいゆうりんかんだいいちかん
藤井斉成会有鄰館第一館
藤井善助が収集した中国美術工芸品の展示と保存のため,武田五一の設計で大正15年(1926)に建てられた。屋上に中国風の八角堂がのる特異な形態で,内部は展示品に合わせた中国風意匠。近代の民間美術館では東京の大倉集古館に次いで古く,建築としては現存最古。

いわくらじんじゃ
石座神社
八所明神本殿(東)と十二所明神本殿(西)は,ともに明和3年(1766)に造営された一間社流造である。装飾が少なく,古式な姿を残す。敷地の高低差を利用して軸線を強調した境内配置はみごとで,京都市文化財環境保全地区にも指定されている。

しもごりょうじんじゃ
下御霊神社
本殿は天明8年(1788)に仮皇居の聖護院宮に造営された内侍所仮殿を,寛政3年(1791)に移建したもの。本殿・幣殿・拝所・南北廊が,屋根を交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は,市内の御霊社に特有のものであり,なかでも当社殿は造営年代が古い。

こゆいだなちょうかいしょ(ほうかぼこ)
小結棚町会所(放下鉾)
当町は祇園祭のとき放下鉾を出す町内である。町会所は通りに面した会所家(慶應3年・1867)と,奥の土蔵(嘉永2年・1849)から構成されている。祭りのときは,建築の土蔵の2階から会所家2階の裏縁にかけて,長大な木製の渡廊がかけられる。

たかんなちょうかいしょ(もうそうやま)
笋町会所(孟宗山)
笋町は祇園祭で孟宗山を出す町内である。町会所は,明治30年(1897)建築の会所家と土蔵(明治元年・1868),地蔵堂から構成されている。会所家・土蔵・地蔵堂が敷地の奥の方にまとまって建ち,また,塀に沿って真竹が植えられている。

てんじんやまちょうかいしょ(あられてんじんやま)
天神山町会所(霰天神山)
当町は祇園祭のとき霰天神山を出す町内である。現在,会所家・土蔵・大日堂が建つ。会所家は明治19年(1886)頃の建物で,「町席」と称する10畳の座敷に釣床を設け,玄関には式台を備えて格式を整えている。土蔵は江戸時代後期の造営で中に天神祠を安置している。

のぐちけじゅうたく
野口家住宅
元治元年(1864)の大火後の再建で,店舗棟と奥の居住棟を玄関棟で接続した表屋造り形式である。座敷は伏見の小堀屋敷にあったとされるものを明治4年(1871)に移建したもので,12畳半の主室と次の間から成る。数寄屋風書院の構えで,長押の釘隠し金物や天袋の引手金具の意匠が秀逸。

やぎけじゅうたく
八木家住宅
当家は幕末には新撰組の宿所(壬生屯所)であった。主屋(文化6年・1809)は式台を備えた本玄関を配し,その奥に仏間・奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門(文化元年)の外観は,与力窓や出格子窓を開くなど,昔のおもかげをよく残している。

ぎょうがんじ
行願寺
当寺は一般に革堂の名で親しまれている。現本堂は文化12年(1815)の再建で,外陣を吹放ちとするほか,複雑な屋根構成や豊かな彫刻に特色がみられる。西国巡礼の札所本堂として近世天台宗本堂としても価値が高い。鐘楼は文化元年(1804)の建物である。

きゅうかんざきけじゅうたく
旧神先家住宅
当初の所有者の神先家は壬生の郷士であった。主屋は文政3年(1820)の祈祷札が残ることや様式から19世紀の初期の建築とみられる。式台を構えた玄関や,主室・次の間からなる書院造の座敷構成に郷士住宅としての特徴がみられ,武家住宅風の上層民家として貴重。

きょうとはりすとすせいきょうかいしょうしんじょふくいんせいどう
京都ハリストス正教会生神女福音聖堂
明治34年(1901)に松室重光の設計で建てられたギリシア正教会の京都聖堂。木造のロシアビザンチン様式で,玄関・啓蒙所・聖所・至聖所が1列に並ぶ。聖所と至聖所を仕切る聖障はロシア正教会からの寄附。日本ハリストス正教会の本格的な聖堂としては現存最古。

にほんきりすときょうだんきょうとごこうまちきょうかいかいどう
日本キリスト教団京都御幸町教会会堂
現在の教会堂は大正2年(1913)に建てられた。煉瓦造の平家建で,背面に講壇を張り出す他はほぼ矩形の平面である。外観は窓を尖頭形として側面の要所にバットレスを配すなど,ゴシック様式を基調とする。内部は手前に玄関を配し,その上部を中2階とする。奥の礼拝堂は広い一室で,天井を張らずにキングポストトラスをみせ,後方にコミュニオンレール(めぐみの座)を設けて最奥に講壇をつくる。明治から昭和初期にかけて活躍したヴォーリズの初期の教会堂作品である。

かわさきけじゅうたく
川崎家住宅
綿布商を営む井上利助が大正期に建てた大規模な都市型住宅で,その後川崎家の住宅として使用された。茶室(紫織庵)は4畳板入で,3畳の水屋が付く。洋館は外壁に大谷石と煉瓦タイルを用いてライト風の意匠に仕上げている。主屋は中廊下をもつほぼ総二階の建物で,2階にも本格的な座敷や洋間を設けている。棟札によると,大正13年(1924)に二十八畳蔵,大正15年に主屋や便所浴室棟が建てられている。大工棟梁は上坂浅次郎で,京都帝国大学教授の武田五一も設計に参与している。

こうせいいん
廣誠院
廣誠院の主要な建物は実業家の伊集院兼常が明治25年(1892)頃に建てたもので,書院・茶室・広間などからなる。書院まわりは軒の出が三メートル以上の庇になっており,その深い軒を一本の丸太の桁が支える軽快な構造になっている。茶室は庭園の流れをまたいで建ち,躙口や円窓が開いている。数寄屋普請の技術が遺憾なく発揮された,明治期の優れた数寄屋邸宅である。

きゅうきょうとちゅうおうでんわきょく
旧京都中央電話局
逓信省の京都中央電話局として吉田鉄郎の設計で建築された。工期は大正14年(1925)〜15年の第1期工事と昭和4年(1929)〜6年までの第2期工事に分かれる。西面の連続アーチが特徴。日本近代建築のパイオニア吉田鉄郎が,国際建築様式を採り入れる直前の作品。

きゅうまいにちしんぶんしゃきょうとしきょく
旧毎日新聞社京都支局
昭和3年(1928)に武田五一の設計で建築された。正面の水平ルーバーによる水平線の強調にF.L.ライトの影響が,バルコニーや玄関左右のランプカバーの意匠にアール・デコの影響が認められる。国際建築様式成立直前のヨーロッパの2大流行が取り入れられている。

なかぎょうゆうびんきょくきゅうちょうしゃがいかん
中京郵便局旧庁舎外観
京都郵便電信局として逓信省営繕課の設計で明治35年(1902)に竣工した。ネオルネッサンス様式で,当時の代表的郵便局であり,日本近代建築史上重要な建物であった。昭和51年に改築されたが,この時旧庁舎の南面及び東西側面の一部の外壁と屋根が保存された。

ばんけじゅうたく
伴家住宅
店舗棟と居住棟を玄関棟でつないだ表屋造形式で,明治44年(1911)には現在の姿になっていた。主室と次の間から成る座敷は数寄屋風で,主室は床・棚・平書院を構えて,棚の天袋・地袋に池大雅の墨絵を張る。京都の町家は明治から大正期に座敷を改築する傾向があるが,当家もその一例。

やぎ(みなみ)けじゅうたく
八木(南)家住宅
八木家は壬生の郷士である。文政3年(1820)には屋敷全体を建て替える普請願書が出されており,主屋・長屋門・奥の土蔵はこのときのもので,安政4年(1857)に主屋のうち玄関と座敷等が建て替えられた。座敷は2室からなり,座敷主室は西面に床・棚・付書院を備えた本格的なものである。



京都市文化財保護課トップページへ
文化財について
指定・登録文化財
世界遺産
記念物ガイド
販売出版物貸出フィルム・ビデオ
文化財イベント情報
調査・研究報告
   
著作権 京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課