京都市指定・登録文化財−名勝



いわさけていえん
岩佐家庭園
岩佐家は,上賀茂社家十六流れのうち「氏」の流れに属している。現在の庭園の原型は,南側に敷地を拡幅した天明2年(1782)頃に築かれたものと考えられる。園池は,現在も明神川支流から流水を取り入れ,再び川に戻している。また,園地には,紐連飾りなどに用いられるユズリハがあるのも,社家の庭園らしさを感じさせている。建造物と一体のものとして,江戸時代から比較的良好に保存されてきた上賀茂社家の庭園であり,貴重なものである。

しょうでんじていえん
正伝寺庭園
寛永年間(1624〜44)に,伏見城から移建したものと伝えられている,重要文化財の本堂の東に広がる庭園である。白砂敷に,サツキを主体とした丈の低い刈り込みを南から七・五・三に配し,漆喰仕上げの土塀越しに比叡山を望むことができる。なお,庭園が現在のような形態になったのは,昭和10年(1935)の改修によるもの。土塀越しに庭園が取り入れられた比叡山が美しい姿を見せる,借景の庭園として貴重である。

しょうこくじうらほうじょうていえん
相国寺裏方丈庭園
 臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は,足利義満により創建された。現在の方丈は,天明の大火による焼失後の文化4年(1807)に再建されたもので,この庭園もその時に築造されたものと伝えられている。方丈の北面に広がる庭園は,空堀状の枯流れが特徴である。この枯流れは,卓越した意匠を持ちながらも,方丈の屋根や周辺の雨水処理と,方丈からの鑑賞という,重層的な機能を満たしている点からも,貴重な庭園である。

だいしょうじていえん
大聖寺庭園
門跡尼寺である大聖寺が現在地に移ったのは,元禄10年(1697)のことであり,寺に保存されている日記から当時の様子がうかがえる。庭園は,境内南端の土塀沿いに配され,東西約30mの枯流れを主体とする。様相は,門跡尼寺に相応しい御所風の優美さを備えている。寺に保存されている日記によると,明正天皇(1623〜96)の没後,河原の御殿から材料を移して築かれたものであることがわかる。江戸中期の記録が残る,優れた意匠の庭園として貴重である。

ほんみょういんていえん
本妙院庭園
本妙院は,妙蓮寺の塔頭であるが,妙蓮寺山内の建物は天明8年(1788)の大火でそのほとんどが焼失した。現在本妙院が立っている位置は,寿命院の跡地であることが古地図から判明している。庭園については,記録がないため,寺伝のとおり大火前のものだとすると,元来寿命院の庭園であったことになる。庭園は,書院の東にあり,枯山水の様相を呈している。築山上には,モッコクやカエデを中心にカシノキなどが植栽されている。    
知恩院方丈庭園などの作庭に関わったといわれる玉淵坊(江戸時代前期〜中期)の系統の作庭家の関与が考えられる貴重な庭園である。

りゅうほんじていえん
立本寺庭園
日蓮宗の本山の一つである立本寺が現在地に移ったのは,宝永5年(1708)のことである。庭園については,寺に残る『龍華西院歴代録』の記載から,日到上人が立本寺の住職をしていた天保14年(1843)から嘉永3年(1850)の間に作庭されたものであることがわかる。庭園は客殿の西及び南にかぎ形に広がっており,西側が中心となっている。池を掘ることなく,築山を多数築いていることから,明確な意図のもとに他所から土を運んで築造されたと考えられる。江戸時代末期の記録が残る,独創的な意匠を持つ庭園として価値の高いものである。

にしむらけていえん
西村家庭園
上賀茂神社の社家であった錦部家の旧宅の庭園である。かつては,明神川の流水を引き入れて二筋の鑓水とし,再び川に返す構造になっていた。水垢離の場として使われたと推測される円形の窪みや,神社の北に位置する神山の降臨石をかたどったといわれる石組みなどがある。池を設けず,幅広い二つの鑓水としている点で,他の社家庭園とは異なった印象を受ける。今もなお,社家の庭園らしい意匠を有する庭園として貴重である。

かんきゅうあん(むしゃのこうじせんけ)ていえん
官休庵(武者小路千家)庭園
茶道の家元,武者小路千家の露地で,初代一翁宗守が寛文7年(1667)高松藩の茶堂を辞し,建てた茶室が官休庵である。以降,3度の火災に遭い,明治14年にほぼ現在の姿になった。敷地内には官休庵のほかに,多くの茶座敷があり,様々な方法で利用されている。路地は,飛び石や蹲踞を巧みに配置し,これらの茶座敷をつないでいる。また内露地と外露地を結ぶ「網笠門といわれる中門は,日本庭園の中でも特に著名である。創設以来の伝統的な手法と斬新な意匠を併せ持つ庭園である。

こううんじていえん
光雲寺庭園
光雲寺は,南禅寺の境外塔頭である。庭園が築かれたのは,寛文から延宝年間にかけての寺の造営時と考えられ,『都林泉名所図会』には池を備えた庭園の姿が描かれている。現在の庭園は,昭和2年に7代目小川治兵衛(植治)によって,新規に築かれたものと推測される。庭園は,東山を間近にして庫裏と書院に面する。小さな滝を介し,山裾から導かれてきたと思わせる流れは,一旦中心の池に注ぎ,再度流れへと姿を変え,白川に配水されている。池の脇には築山が廻り,イロハモミジ,スギ,サルスベリ等が植栽されている。随所に植治の作風と円熟した技が残されている庭園として貴重なものである。

いちょうけていえん
鴨脚家庭園
鴨脚家庭園は賀茂川に架かる葵橋東詰の北部に位置する。近隣は,応仁年間からの記録が残る賀茂御祖神社の社家町であったが,下鴨本通の開通に伴い数多くの社家が退去したため,鴨脚家は唯一現存する賀茂御祖神社の祝(はふり)(神官)の屋敷である。庭園は東西に並列する和館2棟に南面し,形態は全体として歪な方形の擦り鉢といった形態をしており,周囲より一際窪んだ中心部に泉がある。塀際には築山が配され,高さの異なる石積が築山と和館の際を取り囲むようにして高低差を埋めている。水の供給を湧水という自然の力に頼り,賀茂御祖神社の祝の現存する唯一の屋敷に設けられた庭園として貴重である。

さいおういんろじ
西翁院露地
西翁院露地は,黒谷浄土宗の本山金戒光明寺の塔頭西翁院境内にある。
寛政十一年(1799)刊行の『都林泉名勝図会』に,露地の様相が描かれている。茶室 ( よど ) 看席 ( みのせき ) は,寛文十一年(1671)の建築であると考えられ,江戸前期の茶人藤村庸軒作と伝えられる。
露地は鍵形の敷地をもち,内露地と外露地からなる。中門を潜り,露地へ導かれると,すぐに石段を下り腰掛に至る。腰掛の北方には連続して飛石が打たれ,西側は高生垣で遮蔽されている。高低差のある東側には混垣が巡り,中央の石段で内露地と連絡している。本堂から南西を眺めると,眼下に京都市街を広く見渡すことができる。内露地は茶室に西面し,外露地とは南北に木戸口を備えた四ツ目垣で仕切られ,中央付近に蹲踞が設けられている。『都林泉名勝図会』に描かれ,市街への広い眺望と市中の山居といった風趣を併せ持つ,藤村庸軒ゆかりの茶室に伴う露地として貴重である。
はくさそんそうていえん
白沙村荘庭園
日本画の巨匠橋本関雪が大正5年以降営んだ邸宅の庭園である。東側部分の園池は,かつて疎水から流水を引き入れており,2棟の茶室を備えている。西側部分は,竹林に羅漢石仏が点在するなど,画伯の豊かな感性に裏打ちされた趣向が感じられる。アトリエとして用いられていた建物,「存古楼」の二階からは,大文字の送り火を望むことができる。また庭園の随所には,優れた石造美術品が配されるなど,橋本画伯の豊かな感性が感じられる貴重な庭園である。
たいりゅうさんそうていえん
對龍山荘庭園
南禅寺の周辺は,明治時代に数多くの別荘が営まれたが,この庭園もそうした庭園の一つである。この地には,当初,薩摩出身の伊集院兼常が屋敷を開いた。その後,市田弥一郎の所有となった明治35〜39年(1902-06)にかけ,小川治兵衛の手によって,現在のような姿に改修された。庭園の構成は,主屋の東側に広がり,池を中心とする北側の豪壮な趣の部分と,南側の優美な雰囲気の部分とに分けられる。園路と築山は幾つもに分かれ,東山を借景として複雑な場の構成をとり,構成要素も実に豊かである。明治期における京都の別荘庭園を代表する貴重な庭園である。なお,昭和63年に,国指定名勝とされたため,京都市による指定は解除になった。

さんぜんいんゆうせいえんていえんおよびじゅへきえんていえん
三千院有清園庭園及び聚碧園庭園
三千院は比叡山延暦寺の別院で,江戸時代には円徳院,円融院と号しており,明治4年以降三千院の名が用いられている。有清園及び聚碧園の庭園の庭造りに関する資料は確認されていないが,江戸前期には成立していたと考えられる。有清園は宸殿に南面し,阿弥陀堂の西側に石組みと池を有する。敷地一面に広がる苔地にスギが林立する光景が印象的である。聚碧園は客殿の南東側に位置し,敷地の高低差を利用した池と築山を有する。双方の庭縁は古くからのたたずまいが残されている貴重な庭園である。

しらかわいんていえん
白河院庭園
白河院庭園は7代目小川治兵衛(植治)によって手がけられたものであり,呉服業を営んでいた下村忠兵衛の所有となった翌年の大正8年(1919)に竣工した。造営当初は,東山を背景とする庭園に面して,二階建ての和館と洋館が南北に並立していた。洋館と和館の一部は昭和33年(1958)に取り壊されたが,その際にも庭園部分は殆ど改変を受けなかった。庭園は南北に細長い園池を中心とし,園池の東半周を囲む築山上に群植されたアカマツやイロハモミジ越しに,東山を望む大らかな敷地構成をとり,建物との間には明るい雰囲気の芝生広場が広がる。東山の眺望を活かした,植治の円熟期の技が随所に現れた貴重な庭園である。 

みぶでらていえん
壬生寺庭園
『壬生寺縁起』によれば,同寺の創建は正歴2年(991)に遡り,現在地に寺地を定めたのは建保(1213)のこととされる。本道の西,書院の南に位置する庭園は,北村援琴によって著された『築山庭造伝』に,鳥瞰図が載せられている。しかし,後の大火で,本堂以下ことごとく焼失したため,庭園も損害を被ったものと考えられる。よって,現在のように整えられたのは,文化8年(1811)に本堂等が再建された頃と考えられるが,一部は上述書籍の図と相似している。庭園は南北に長い枯池を中心とし,半周を築山で囲まれている。書院から見て右手奥には,枯滝石組みが配されている。市街地の中心にありながら,江戸時代より残る庭園として貴重なものである

ほりのうちけちょうせいあんていえん
堀内家長生庵庭園
18世紀初期に,堀内家初代仙鶴が築いたものと考えられており,大きくは外露地,茶室「長生庵」及び「無着軒」の内露地の三つに分けられる。千家の露地とは異なり,内露地には腰掛や雪隠を設けていないのが特徴である。中門をくぐり,長生庵の内露地に入ると,長生庵の躙口までは,露地中央の井筒を回りこむように飛び石が打たれ,奥行きを深く見せるような工夫がなされている。江戸時代の茶家の庭の様子を今に伝えるものとして貴重なものである。

こうせいいんていえん
廣誠院庭園
廣誠院庭園は,当地が伊集院兼常の所有であった明治25年(1892)から5年の間に,建物と共に造られたと考えられる。伊集院は建築と庭園に造詣が深く,当庭園は彼の強い指示の下に築造されたと考えられる。庭園は書院と茶室,広間に南面し,園池の水を高瀬川から取水し,再び元の川へ戻すという,現在は見られなくなったこの地域特有の庭園の形態を残す。庭園と建物は見事に融和しており,書院の大きな庇を支える柱の礎石が池中に据えられるなど,随所に軽やかな趣きが演出されている。建物と水流が融和する近代黎明期に造られた庭園として貴重である。

ようげんいんていえん
養源院庭園
養源院は文禄3年(1594),淀君が亡父浅井長政を弔うために創建した寺である。元和5年に焼失し,同7年淀君の妹徳川秀忠夫人により再興された。江戸時代の養源院の様子は,『都林泉名所図会』の図に描かれ,それは,書院南の縁から庭園側を望んだ様子と思われる。図には,東西方向に伸びる雨落溝や,中央には沓脱石,書院の西端には縁先手水鉢が描かれているが,書院は明治に撤去されたため,それらは失われた。とはいえ,『都林泉名所図会』に描かれる姿をよく伝え,正面の枯滝石組みを中心に,西側の石橋,護岸石組みなど,堅実な当時の趣を残す貴重な庭園である。

そくしゅういんていえん
即宗院庭園
即宗院は東福寺の塔頭で,元中4年(=嘉永元年,1387)に島津家の菩提寺として,島津氏久により創建された。寺号は彼の法名「齢岳立久即宗院」に由来する。この地は関白藤原兼実(1149-1207)が場晩年に営んだ山荘月輪殿の跡といわれる。『都林泉名所図会』には,この庭園の姿が収められている。明治の初期頃,荒廃の憂き目を見ていたが,近年なり現況実測・発掘調査が行われ,現在の姿となった。造営当時の姿を残す名園の一つとして貴重である。

ちおんいんほうじょうていえん
知恩院方丈庭園
知恩院は,法然上人が草庵を結んだ地に,弟子源智が大谷寺を創建したのが始まりである。庭園は,寛永10年(1633)からの伽藍再建と並行して築かれたものと考えられ,また,池泉には,華頂山山麓の湧水が利用されている。構成としては,大方丈・小方丈の建物に面し,それに応じて南庭と北庭とに分けられる。南庭は,紀州の青石が用いられるなど,庭の中心となる景に名石が使われているのも,この庭園の特徴である。優れた景をもつだけではなく,江戸時代初期の庭園の特徴を良く残している貴重な庭園である。

みやこほてるあおいでんていえんおよびかすいえんていえん
都ホテル葵殿庭園及び佳水園庭園
都ホテルは,華頂山を背に京都市街を一望のもとにする高台に位置する。葵殿庭園は,7代目小川治兵衛(植治)の最晩年,技量が最も円熟していた頃に築かれており,佳水園庭園はその息子,小川白楊の手がけたものである。
葵殿庭園は,モミジやアセビの群植とシダ類に覆われた急斜面地を骨格としており,その斜面を縫うように流れと沢飛びが築かれている。佳水園庭園はもともと,大正15年に,第23代内閣総理大臣清浦奎吾の喜寿を記念して建てられた喜寿庵の前庭である。庭園の骨格には,露出したチャートの岩盤をほぼそのまま利用しており,水流が岩のしわを伝って落ちている。双方の庭園は,巧みに地形を利用した庭園として貴重である。

なみかわけていえん
並河家庭園
並河家庭園は,七宝作家で明治29年に帝室技芸員となった並河靖之(1845-1927)が,住宅兼工場に付して造営したものである。7代目小川治兵衛(植治)が手がけたとされ,明治27年(1893)に竣工した。庭園は,表玄関の「通り庭」と敷地の北東角にある「坪庭」,そして園池を中心として座敷前に広がる「主庭」に大別できる。これらは一体のものとして,明治期の住宅における庭園の有り様を今に伝えている。庭園内は色とりどりの石が配されており,さらに石燈篭や手水鉢,井筒など多くの石造品が景に彩りを与えている。植治が後の作風を築き上げるうえで重要な時期に造られたものであり,並河靖之の芸術観をも受け入れた密度の濃い庭園として貴重なものである。

かじゅうじていえん
勧修寺庭園
歓修寺は,昌泰3年(900)に,宇治郡の大領(統治者)宮道弥益の邸宅跡に創建されたと伝える寺院である。庭園の池は氷室池と呼ばれ,『拾遺都銘所図会』には,「氷室池十五勝」として, 15箇所のみどころが描かれている。書院の南に位置する平庭には,一面にハイビャクシンが枝葉を広げ,その合間には,雪見燈籠をアレンジして創作された勧修寺燈籠が据えられている。背後には,氷室池越しに南大日山の稜線が迫り,彼方に醍醐の山々が望めるなど,その奥行き感のある構成は見事である。

しみずけじゅうぎゅうあんていえん
清水家十牛庵庭園
十牛庵は,大阪の上人であった清水吉次郎が建てたもので,庭園の名は,前の別荘の名が取られた。庭園の造営は小川治兵衛が手がけ,昭和3年(1928)に完成した。構成は,表門から玄関へのアプローチ,主庭,中庭の三つの部分に分けられる。座席に対応する主庭は,巨大な伽藍石と燈篭が主景をなしており,枯流れや蹲踞などが添えられ,落ち着いた雰囲気を醸し出している。植治の作風を今に残しているだけでなく,造営当時の資料を残している貴重な庭園である。

ざっけいんていえん
雑華院庭園
 妙心寺の塔頭である雑華院は,天正11年(1583)に創建された。庭園は,寛政11年(1799)刊の『都林泉名所図会』に,鳥瞰図とともに説明が載せられている。前著に鳥瞰が掲載されている妙心寺塔頭の庭園は数多くあるが,国の指定名勝以外は,ほとんど当時の原形を留めておらず,やや改修はあるものの,おおむね当時の姿を保っている点,貴重である。

ろくおういんていえん
鹿王院庭園
客殿の南側に位置する庭園で,宝暦13年(1763)に建てられた舎利殿を中心とする庭園である。築かれた時期についての記録には欠けるが,天明6年(1786)刊の『拾遺都名所図会』の鳥瞰図には,ほぼ現在と同様の配石が描かれている。舎利殿が建築されたのは,宝暦13年であることから,庭園もこの頃に整えられたものと考えられる。力強い配石やモッコクなどの古木がみどころとなっており,嵐山方面の眺望にも恵まれている。

いこうあんていえん
遺香庵庭園
遺香庵庭園は,栂尾高山寺の境内に位置する露地である。昭和6年(1931)年に明恵上人の七百年遠忌を記念して,近代茶道の普及に努めた高橋箒庵の指導のもと作庭された。庭園を手がけたのは七代目小川治兵衛(植治)である。飛石や景石の多くは頁岩であり栂ノ尾周辺で調達されたものと考えられる。園内には蹲踞と燈籠が置かれ,イロハモミジやアセビが寄植されている。茶室や腰掛は全体的として近代数奇者の好みが見受けられる。腰掛は庭園の最上部に位置し,山並みを望みつつ庭園全体を見下ろすことができるという茶庭としては珍しい構成をもつ。

にんなじていえん
仁和寺庭園
仁和寺は,仁和4年(888)に造営され正保3年(1646)に再建された名刹である。庭園は宸殿に北面する池庭と,茶室飛濤亭,遼廓亭の露地庭から構成される。池庭は元禄2〜5年(1689〜1692)にかけて整えられ,正保3年にほぼ現在見る形になったとみられる。大正元〜3年(1912〜1914)に,7代目小川治兵衛(植治)の手によって整備等が行われた。池庭の構成は,宸殿前に広がる白州と園池,築山からなる。飛濤亭と遼廓亭の露地庭は,江戸末期頃に整えられたと考えられる。双方とも宸殿の池庭と一体となっており,遼廓亭の露地には茶室回りに池と流れが作られ,茶室や書院からそれを鑑賞できるようになっている。江戸時代における寺院の池庭の様相を残すものとして貴重である。

ごくらくじていえん
極楽寺庭園
極楽寺は,天文18年(1549),下桂村の地侍であった中路壱岐が称念上人を請来して一寺を建立したのに始まる。当寺は桂離宮に近接し,またそれを造営された智仁,智忠両親王を始めとする八条宮家代々の位牌所であったことでも知られている。庭園が造成された時期は,庭内にある花崗岩製の切石橋の「天保十一子年施主若中」という刻によれば,天保2年(1831)に建築された書院の完成後,間もない頃であることがわかる。江戸時代後期に多く見られる,築山林泉庭の様が良好に維持されているという点で,庭園文化史上貴重なものである。

じぞういんていえん
地蔵院庭園
方丈の南に広がる平庭枯山水で,約30個のそれほど大ぶりではない石を,おおむね均等に配しており,要所に据えられた立石が,この庭園に独特の表情を与えている。作庭に関する記録等に欠け,また,その様式も時代を確定する要素を持たないため,現在の姿になった時期は不明であるが,竹林に囲まれ,良好な環境を保つ境内の核としての役割を果たしており貴重である。

おおはしけていえん
大橋家庭園
大正2年,鮮魚の元請業を引退した大橋仁兵衛が構えた邸宅の庭園である。南方には,伏見稲荷を望め,路地風に仕立てられた庭園内は,落ち着いた苔に覆われ,小色とりどりの石や燈籠が点在している。また,見逃せないのは2箇所の蹲踞に設けられた水琴窟である。これは,手水鉢の下に作られた空洞に手水を注げば,その水滴が琴に似た音色を奏でるようにした装置で,今日では珍しいものである。


京都市文化財保護課トップページへ
文化財について
指定・登録文化財
世界遺産
記念物ガイド
販売出版物貸出フィルム・ビデオ
文化財イベント情報
調査・研究報告
   
著作権 京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課