京都市指定・登録文化財−史跡


くがじんじゃけいだい
久我神社境内
 久我神社は,賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社で,賀茂建角身命を祭神としている。創建年代は不詳であるが,加茂氏の定住に伴って祭祀されたものと考えられ,『三代実録』貞観元年(859)正月27日の条には,既に本神社に関する記載がみられる。京都の歴史を知る上で欠くことのできない神社の一つで,境内には大宮森の面影を残す巨木が繁茂している。

ひむろじんじゃおよびひむろ
氷室神社境内及び氷室跡
 本神社は,額田大中彦皇子(ぬかたおおなかつひこのおおじ)に氷を献上したと伝える稲置大山主神(いなぎおおやまぬし)を祀り,宮中に供御する蔵氷にたずさわった清原氏が氷室や氷池の守護神として勧請したと伝える。氷室とは,冬に氷池でできた氷の貯蔵庫で,氷は夏に宮中で使用された。この氷室の地は『延喜式』に記載された「愛宕郡栗栖野氷室」にあたるとされ,現在3基の氷室が残っている。氷室神社の成立年代や,この氷室の時期などについては不明な点が多いものの,氷室と氷室に関係する神社が共に良好な状態で現存しており,この地域の歴史上特に価値の高いものである。

いまでがわどおりてらまちひがしいるおもてちょう(おおはらぐち)どうひょう
今出川通寺町東入表町(大原口)道標
道標は「みちしるべ」とも呼ばれ,現在地から目的地への方向,距離,目的地への経由など。行先や距離が刻まれた石柱状のもので,街道の分かれ道などに建てられている。交通の発達とともに価値は薄れ,その数も減少すているが,当時の交通の様子を知ることができる貴重な文化財である。この道標は大原口に慶応4年(1868)に建てられたもので,目的地名が多く,距離も正確に示されている。紙面に方角とともに22の目的地名が良質の花崗岩に流麗な文字で深く彫られ,下部には付近の住民と思われる19名の名前が見みえる。

おののえみしのはか
小野毛人墓
 崇道神社境内背後の山腹に位置している。慶長18年(1613)に墓誌が発見され,遣隋使小野妹子(いもこ)の子,毛人の墓であることが判明した。大正3年には盗難などを考慮して墓誌(昭和36年に国宝に指定)は取り出されることとなり,その際,墓の調査も実施された。墓誌は現在,京都国立博物館に保管されている。墓は調査の結果,大化の薄葬令に準拠しているなど,当時の墓制を知る上からも貴重なもので,また市内に残る奈良時代前期の遺跡として大変価値の高いものである。

なかのたに4ごうがま
中の谷4号窯
この窯跡は平安時代に灰釉陶器を焼成した窖窯(あながま)で,昭和63年に調査が行われた。灰釉陶器の生産地は愛知県を中心とする東海地方で,他の地域ではほとんど発見されていない。本窯跡は岩倉地域の窯業生産の幅の広さを示していると同時に,大消費地であった平安京を抱える京都の窯業史を理解するうえで貴重である。

きぶねじんじゃけいだい
貴布祢神社境内
 貴布祢(貴船)神社は,貴船口より貴船川に沿って北上した所に位置する式内社である。本神社は,平安遷都後,治水,祈雨祈晴の神として崇敬された。史料上の初見は『日本紀略』弘仁9年(818)五月条の「山城国愛宕郡貴布祢神為大社」であり,同年7月には祈雨祈晴の奉幣の初見がある。天喜3年(1055),洪水による流損のため,現奥宮の地から現在地に本社が建て替えられ,元の場所は,奥宮と称して今日に及んでいる。本神社は,賀茂川流域の歴史や神祈進行の原点を考える上で貴重である。

きょうとだいがくこうないかそうづか
京都大学構内火葬塚
この火葬塚は,京都大学構内での発掘調査において発見されたものである。平安時代後期から鎌倉時代のものと考えられている。方形の主体部を持ち,外側溝及び内側溝により周囲と隔離された,保存状態の良好なものである。
 火葬塚としては,考古学的に調査された数少ない例であり,葬法の変遷を知る上で貴重な遺跡であることが判明している。現在遺構上には盛土がされ,検出遺構面とほぼ同じ形態にした上で整備されている。

きたしらかわにしまちどうひょう
北白川西町道標
道標は「みちしるべ」とも呼ばれ,現在地から目的地への方向,距離,目的地への経由など。行先や距離が刻まれた石柱状のもので,街道の分かれ道などに建てられている。交通の発達とともに価値は薄れ,その数も減少すているが,当時の交通の様子を知ることができる貴重な文化財である。この道標は,白川街道沿いに幕末の嘉永2年(1846)に建てられたもので,北野天満宮や吉田社,東西本願寺などへの道程が記されている。願主は「謀」となっている

よしだほんまちどうひょう
吉田本町道標
道標は「みちしるべ」とも呼ばれ,現在地から目的地への方向,距離,目的地への経由など。行先や距離が刻まれた石柱状のもので,街道の分かれ道などに建てられている。交通の発達とともに価値は薄れ,その数も減少すているが,当時の交通の様子を知ることができる貴重な文化財である。この道標は 東一条の交差点北東隅,かつては白川沿いに建てられていたもので,宝永6年(1709)の年号と建立者沢村道範は当時京都に数多くの道標を建てたことで知られている。
そすいうんがのうちすいろかくおよびいんくらいん
疏水運河のうち水路閣及びインクライン
 琵琶湖疏水は,琵琶湖と宇治川を結ぶ船運を開き,水力,灌漑,防火などに利用して京都の産業振興を測ることを主な目的として計画された。工事は,明治18年(1885)に着工して以来,数々の困難を乗り越えて同23年に全線が開通している。当時我が国の重大な工事はすべて外国人に委ねていた時代にあって,日本人のみの手によって行われた最初の近代的大事業であり,明治期における日本の土木技術の到達点を示す近代遺産として,昭和58年にインクライン及び南禅寺水路閣が京都市の指定となり,平成8年6月には国の史跡に指定されている。(平成8年6月19日市指定解除)

へいあんきゅうみきのつかさそうこあと
平安宮造酒司倉庫跡
造酒司は,平安時代,主に宮内で支給される酒・醴(あまざけ)・酢などの醸造をつかさどる役所であった。
この造酒司推定地内では1978年の発掘調査で,総柱の東西3間(6.0m),南北3間(7.2m)の掘立柱建物が発見され,醸造用の米等を保管する高床式倉庫の遺構と考えられている。平安宮跡は全域が市街地であることから,建物跡等がまとまって検出できた調査例はきわめて少ない。造酒司跡でも,正庁等の主要建物は検出されていないものの,本倉庫跡のように平安京創建期の建物1棟分の遺構が良好な状態で検出できたことは,特筆すべきことであり,都城制の到達点ともいえる平安宮の復元にとって貴重な遺跡である。

さんじょうどおりしらかわばしひがしいるごけんちょう(さんじょうしらかわばし)どうひょう
三条通白川橋東入五軒町(三条白川橋)道標
道標は「みちしるべ」とも呼ばれ,現在地から目的地への方向,距離,目的地への経由など。行先や距離が刻まれた石柱状のもので,街道の分かれ道などに建てられている。交通の発達とともに価値は薄れ,その数も減少すているが,当時の交通の様子を知ることができる貴重な文化財である。この道標は,東海道沿いに延宝6年(1678)に建てられたもので,市内存最古の道標である。京都に不案内な旅人のために建てたという建立目的が案内文とともに記されている。

ほうかんじけいだい
法観寺境内
「八坂の塔」の通称で市民に親しまれている法観寺の創建は,寺伝によれば聖徳太子が如意輪観音の夢告により五重塔を建て仏舎利を納めた(『山城州東山法観寺仏舎利塔記』)ことによると伝えられている。元は真言宗であったが,中世以後臨済宗建仁寺派に属している。中世の戦乱期に度々火災に会い,現在の五重塔は永亨12年(1440)に再建された時のものである。境内ではこれまでに飛鳥時代の瓦も出土し,塔の位置も古来から動いていないことが発掘調査で確認されている。京都市内にあって寺の創建が飛鳥時代にまで溯る山背の古代寺院として貴重な史跡である。

おおやけいちりづか
大宅一里塚
奈良街道の一里塚で,市内に残る唯一のものである。もと街道の両側にあった塚のうち,西側のものが現存し,直径4〜5m,高さ1.8mを測る。塚の上には樹高約11mのエノキが植えられている。一里塚は街道の両側に一里(3.75km)毎に目印として築かれた塚で,慶長9年(1604)に徳川家康が諸街道の整備とともに,塚上にエノキを植えた一里塚の築造を命じたことが知られている。

みささぎなかうちちょう(ごじょうわかれ)どうひょう
御陵中内町(五条別れ)道標
道標は「みちしるべ」とも呼ばれ,現在地から目的地への方向,距離,目的地への経由など。行先や距離が刻まれた石柱状のもので,街道の分かれ道などに建てられている。交通の発達とともに価値は薄れ,その数も減少すているが,当時の交通の様子を知ることができる貴重な文化財である。この道標は,東海沿いに幕末の宝永4年(1707)に建てられたもので,東海道を大津方面から来た旅人にとって,五条・伏見方面への近道を示す役割を担っていた。建立者は「吉田本町道標」と同じ沢村道範」である。

このしまにますあまてるみたまじんじゃ(かいこのやしろ)けいだい
木嶋坐天照御霊神社(蚕の社)境内
木嶋坐天照御霊神社は『続日本紀』大宝元年(701)にすでにその名がみえる市内でも最古の神社の一つである。巨樹が繁茂し古来の姿をよくとどめている境内には,四季湧水する元糺の池があり,その池中には京都三鳥居とされる三柱鳥居が建っている。本殿の東側には養蚕神社がまつられ,「蚕の社」の別名もこれに因んでいる。秦氏とのつながりも指摘される式内社である。

へんしょうじけいだいたてものあと
遍照寺旧境内建物跡
遍照寺は,永祚元年(989)に花山天皇の御願により,僧寛朝が広沢池の北西に創建した寺院である。遍照寺は大覚寺と隣接して壮大な伽藍を構えていたが,応仁の乱により衰退し,その後,江戸時代の寛永年間に嵯峨広沢西裏町の地に再建されて現在に至っている。
 平成3年度に遺構の確認調査を行った結果,同寺の遺構として初めて建物跡が検出された。一辺の長さ12mの方形の基壇を検出しており,一間四面の御堂である可能性の強いことが明らかになった。

おんどがいけ1ごうふん
御堂ケ池1号墳
本古墳は,梅ケ畑向ノ町に26基以上あった御堂ケ池古墳群中最大の規模を有していた古墳で,付近にあった村の最有力家族の墓だと考えられている。宅地造成に伴い,発掘調査を行ったところ,6世紀後半に築造された京都市内の円墳としては最大級に属するものであることが明らかとなり,調査後,近くの鳴滝音戸山町にある通称さざれ石山の山腹に移築復元を行った。

かみなかじょうあと
上中城跡
上中城は,天仁年中(1108年〜1110年)に北面の武士の一人によって築かれたと伝えられている。発掘調査により,この城は12世紀から13世紀を中心に使用されていたこと,東西84m,南北40m,周辺部の水田より1m程度盛り上がった城内部分の面積が約3,000?あり,城の周囲には幅5m,深さ1mの濠が廻り,城内の北端部に幅5m,高さ1.8m,長さ20mの土塁が築かれていることなどが明らかになった。本城跡は平地に築かれる城の形として非常に珍しい楕円形である点,平安時代末期に遡る非常に古い城である点,城跡全体が良好な形で残っている点など特筆すべき特徴があり,貴重な文化財である。

つきよみじんじゃけいだい
月読神社境内
月読神社は,松尾山裾部に位置する。神社裏の丘陵部は照葉樹のほぼ自然林に近い状態が今も良好に残る。本神社は月読尊を祀るが,本来は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものである。延喜式では名神大社に列っせられ,明治11年(1878)には松尾大社の摂社となり,現在に至る。境内には,江戸時代の本殿,拝殿を中心に,御船社,聖徳太子社などが在る。月読神社が京都へもたらされた時期については特定できないが,渡来系氏族,なかでも山城国と深く関係する秦氏による可能性が強い。いずれにしても京都盆地の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえよう。

おおえやまこふんぐん(6〜12,15,16,18〜21ごうふん)つけたり14ごうふん
大枝山古墳群(6〜12,15,16,18〜21号墳)附14号墳
 大枝山古墳群は,京都市の西郊,大枝の丘陵地帯に営まれた古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初頭)の群集墳で,現在までに20基以上が確認されており,1980年代には発掘調査が実施されている。古墳はいずれも円墳で,直径が15〜20メートル,高さ3メートル前後のものである。主体部は横穴式石室で須恵器を中心とする土器類や鉄鏃,刀子,鉄刀,耳環等の金属製品が出土している。これらの遺物の中には装飾付須恵器や朝鮮陶質土器及び銀象嵌を施した鉄刀など希少なものもあり,本古墳群を特色付ける副葬品となっている。本古墳群は,市内の古墳時代後期の群集墳の中でも極めて良くその形状をとどめており,平安京遷都以前の京都の歴史を研究する上で貴重である。
 

ふくにしこふん7ごうおよび10ごうふんつけたりじょうもんじだいいぶつほうがんそう
福西古墳7号及び10号墳附縄文時代包含層
 福西古墳群は6世紀末から7世紀前半にかけて築造された古墳時代後期の群集墳であり,20数基が確認されている。
 洛西ニュータウンの造成に際して,1971年に発掘調査されているが,大半の古墳が造成により削平された中で,この7号墳及び10号墳の2基が福西遺跡公園の一画に保存されたものである。
 なお,この古墳の主体部は縄文時代の包含層を切って造られており,古墳を含む下層は縄文時代の包含層となっている。

おおとしじんじやけいだい
大歳神社境内
 大歳神社は,洛西に広がる水田地帯に位置する延喜式内社で,古くから栢社・栢森大明神とも称せられていた。本神社の創建は不詳であるが,『延喜式神名帳』には乙訓郡「大歳神社」とある。現在の本殿は,大型の一間社流造のものであるが,これは元禄3年(1690)に建立された長岡天満宮の本殿を移築したものであり,昭和61年に完成している。本神社の境内は,本殿・拝殿を取り巻くように緑豊かな鎮守の森としての景観が残されており,式内社としての古社の趣を現在に良く伝えている。

はずかしにますたかみむすびじんじゃけいだい
羽束師坐高御産日神社境内
本神社は,高御産日(たかみむすび)神と神御産日(かんむすび)神の二神を祭神とし,桂川右岸の旧乙訓郡の平野部に位置している。社地は「羽束師の森」とも呼ばれ,もとは大きな森であったと思われる。神明造の本殿と,入母屋造の拝殿は嘉永3年(1850)の再建になる。『続日本紀』大宝元年(701)にその名がみえることから,大宝元年以前には奉斎され,『延喜式』では大社に列している。本神社は,市内最古の神社として,また桂川流域の歴史を考えるうえで貴重な史跡である。近年急速な都市化により激変している周辺環境にあって,本神社とその森は価値の高いものといえよう。

ほうかいじけいだい
法界寺境内
法界寺は,山科盆地東南部の日野に所在する寺院で,現在は東光山と号し真言宗醍醐派に属している。文献では日野資業(988〜1070)を創建者としており,平安時代末頃にその最盛期を迎える。中世の火災により焼失した堂宇も多く,現在の主な建造物のうち,阿弥陀堂(国宝)は,承久3年(1221)の火災後の再建と考えられており,薬師堂(重要文化財)は,伝燈寺(奈良県龍田)本堂を明治37年に移築されたものである。法界寺境内の中枢部については,その創建時から現在に至るまで大規模な地形改変を受けずに今日に至っている可能性が高く,京都の寺院史を研究する上で貴重である。

あんらくじゅいんけいだい
安樂壽院境内
 安樂壽院は,鴨川と桂川の合流点に近い鳥羽の地に所在する。現在は真言宗智山派の寺院で,その創建は,鳥羽上皇により保延3年(1137)に鳥羽離宮の東殿に御堂が建立されたのに始まる。中世以後,寺勢は次第に衰微するが豊臣秀吉が再興し,子の秀頼も二重塔(多宝塔)を建立した。徳川家康も,秀吉に倣い,500石の朱印地を寄進し,これが江戸時代を通じて存続している。現在の安樂壽院の境内地は,当初のそれと比べるとかなり縮小してはいるものの,創建当初の位置に存続していることは絵図からも明確であり,鳥羽離宮の歴史を研究する上で欠くことのできないものである。

ふしみじょういしがき
伏見城石垣
この石垣は,昭和52年に,造成中に発見されたもので,元和9年(1623)の伏見城廃城時における解体を免れたものとみられている。この石垣は,良好に残存していたところから通常,人の目にふれない基礎部分と考えられ,当時の土木技術や伏見城を研究する上で貴重な資料であり,昭和54年に発見場所の南方にある桃山東小学校の正門を入った所に移築された。


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