元離宮二条城
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二条城の庭園
二条城の庭園
現在二条城には江戸時代につくられた二の丸庭園、明治時代の本丸庭園、昭和時代の清流園の3つの庭園があります。平成17年(2005)、米国の日本庭園専門誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』では、日本全国693カ所の中で優れた庭園が選ばれ、清流園が5位に、二の丸庭園が10位に位置づけられました。また平成18年度(2006)には日本全国731カ所の中で、清流園が6位、二の丸庭園が8位にランキングされました。
≫二の丸庭園  ≫本丸庭園  ≫清流園  ≫庭園管理作業
 
二の丸庭園
 
 作庭の年代については記録や作風から推測して、慶長7年(1602)〜8年(1603)頃(家康時代)二条城が造営されたと きに、その建築に調和させて作庭されたものですが、寛永3年(1626)(家光時代)の御水尾天皇行幸のために一部改修を加えられたと考えられています。書院造庭園である二の丸庭園は神仙蓬莱の世界を表した庭園と言われ、また八陣の庭とも呼ばれています。後水尾天皇行幸当時の姿は、新たに増築された行幸御殿、中宮御殿、長局等に取り囲まれた中庭的な庭園としてつくられ、池の中に御亭を建て、池の中央に3つの島、4つの橋を 併せ持ち、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の 座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました。
二の丸庭園マップ
平面図からみた二の丸庭園
(矢印の所をクリックしてみてください。)
 とくに、大広間からは庭園ごしに天守閣が一部望めたものと思われます。その後行幸の翌寛永4年(1627)から四半世紀にかけ、二の丸庭園を取り囲んでいた行幸諸施設は移 築・撤去され、小堀遠州の作庭意図も薄れていきました。3代将軍家光の上洛以降、14代将軍家茂が上洛するまでの、229年間将軍不在のまま幕 末を迎えます。その間事由は定かではありませんが、吉宗の時代に庭園の改修が行なわれました。
 時代は下り、15代将軍慶喜の上洛時には、樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し、荒廃していきました。大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用されました。特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられます。京都市に下賜されてからの二の丸庭園は、昭和14年(1939)名勝に指定、昭和28年(1953)に 国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光要素の一つとして維持され現在に至っています。
≫二の丸庭園観賞(PDFファイル:876KB)
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本丸庭園
 
 本丸造営当初の庭園は、史料が不足している為、どのようなものであったか分かっており ませんが、二の丸庭園にひけをとらない庭園が存在していたと考えられています。しかし、天明8年(1788)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。庭園も延焼して空地となっていたと思われます。幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られました。
 居室は老朽化のため明治14年(1881)に撤去、庭園も取り壊されて空地となりましたが、明治26年(1893)から明 治27年(1894)にかけて京都御苑内にあった旧桂宮邸の一部が移築されて、枯山水庭園が作庭されました。
本丸御殿マップ
平面図からみた本丸庭園
(矢印の所をクリックしてみてください。)
 現在の本丸庭園は明治28年(1895)5月23日、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、約7ヵ月半の歳月をかけ大改造の末、明治29年(1896)に完成した芝庭風築山式庭園です。明治の中頃になると洋風の庭園が多く作庭されていることなどから、本丸庭園も少なからずその影響を受けていると考えられます。庭園は東南隅に月見台(築山)を配し、芝生を敷き詰め、曲線的な園路を設け、石段(岩岐 <がんき>)沿いにはアラカシ、ベニカナメなどを植樹し、所々に燈籠や庭石などを据えられています。 
≫本丸庭園観賞(PDFファイル:779KB)
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清流園
 
 創建時(家康の時代)の二条城北部清流園地区は洛中洛外図屏風などから城内通路と天守閣の一部が存在していたと推定されます。しかし、寛永元年(1624)〜同3年(1626)(家光の時代)にかけての二条城増改築の折、天守閣は淀城に移築されて空地となりました。寛永11年(1634)以降、同心(幕府の役人)の住まいが建造され、幕末まで建造物群があったことが確認できます(但し、一時天明の大火で焼失)。同心らの住まいは明治前期に撤去されたと考えられ、緑地に整備されたと思われます。大正4年(1915)には大正天皇即位式饗宴の儀の会場として利用され、饗宴施設等が増築されました。翌大正5年(1916)より城内の復旧工事が行われ、饗宴施設の一部は岡崎桜の馬場(現在の京都会館付近)へ移築撤去され、その跡地を有名な造園家小川治兵衛氏によって疎林式庭園に復旧されました。
清流園マップ
平面図からみた清流園
(矢印の所をクリックしてみてください。)
 昭和25年(1950)進駐軍の意向によりテニスコートに転用され、その後、昭和40年(1965)に清流園が造営され、現在に至っています。この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、更に全国から集めた銘石、篤志家より寄贈を受けたものなどを用い、昭和40年(1965) 完成しました。庭園は当時の高山義三市長によって「清流園」と命名され、東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は二棟の建物を含めた池泉回遊式山水園(和風庭園)からなる和洋折衷庭園で、観賞するだけでなく実用的な庭となっております。
≫清流園観賞(PDFファイル:951KB) ≫清流園作庭記(PDFファイル:9MB)
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庭園管理作業
 
  昭和14年(1939)、京都市に下賜されて以降、二の丸庭園、本丸庭園、清流園のメインエリアは市の職員によって維持管理がされています。ここでは、特に毎年行われている庭園管理作業を紹介いたします。

二条城における蘇鉄の歴史
 そもそも蘇鉄がなぜ二条城に植えられたのかといいますと、江戸時代(3代将軍徳川家光の時代)、鍋島藩(現在の佐賀県)の鍋島勝茂公が、後水尾天皇行幸に先駆け、蘇鉄を1本献上している記録(東武実録)があり、今まで二の丸庭園の蘇鉄は、鍋島勝茂公が献上したものとして紹介されていました。しかし、平成9年(1997)に江戸中期(8代将軍徳川吉宗の時代)の二の丸庭園の絵図が公表され、当時の二の丸庭園には15本もの蘇鉄が植えられていたことが分かり、その内の1本が現存する蘇鉄の位置と合致しています。現存する蘇鉄は当時のものかどうかは不明ですが、幕末古写真には写っていることから、少なくとも150年以上の樹齢が経過していると思われます。

蘇鉄(ソテツ)の防寒養生
 私たち二条城職員は、蘇鉄が南方系の植物で寒さに弱いため、毎年11月下旬〜12月初旬頃に、蘇鉄の幹全体に、こもやワラなど巻く防寒養生を行っています。この手法は宮内省所管時から引き継がれ、少なくとも65年以上も続けられている庭園管理作業の一つで、二の丸庭園の冬の風物詩となっています。
蘇鉄の枝葉をワラ縄で絞る こもで幹全体を覆う
 
蘇鉄の防寒養生完了 こもの下地巻き完了
下地巻きの上からそぐったワラを巻く
松の葉むしり
 晩秋から春先まで行われる「松の葉むしり」作業。関東でいう「もみあげ」作業です。松は枝の途中から切除すると、芽が出ずに枯れていきます。カシなど常緑樹のようには簡単にはいきません。毎年この時期、松の枝振りを十分吟味し、枝を整理(剪定)したのち、古くなった葉をむしってやる作業を行います。

 


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 このページに関するお問い合わせは下記までお願い致します。
 京都市文化市民局元離宮二条城事務所(075−841−0096) 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541番地
 
一般通路から御常御殿方面を望む 御常御殿から西側芝地方面を望む 御常御殿から雪見燈籠方面を望む 一般通路から築山(月見台)方面を望む 御常御殿から雪見燈籠方面を望む 和楽庵から東山方面を望む 観覧小路から香雲亭を望む 一般通路から和楽庵を望む 一般通路から洋風庭園を望む 沢飛石から滝口を望む