耳塚修営供養碑

HI140

みみづかしゅうえいくようひ
石碑(0027784)石碑周辺(0027785)

 文禄元(1592)年から翌年にかけて,慶長2(1597)年から翌年にかけて,豊臣秀吉は配下の軍勢を朝鮮へ侵攻させた。これを文禄・慶長の役という。この侵略を韓国では壬辰丁酉倭乱といい,朝鮮は膨大な損害を被った。
 日本軍は朝鮮の軍民の鼻を切り取り戦功の証明とした。この鼻は日本へ送られ,方広寺門前に鼻を埋め塚を造り,慶長2年9月28日に大法要が営まれた。この塚をはじめ鼻塚とよび,のちには耳塚と称した。江戸時代初めには塚の上に巨大な五輪塔が立てられた。
 明治31(1898)年は豊臣秀吉の三百年忌にあたり,豊公三百年祭が行われた。その時に耳塚とその周囲が整備された。秀吉を顕彰し,改修事業の経緯を示すために建立されたのが耳塚修営供養碑である。その時造られた石柵は当時の著名俳優が寄進したもので,役者名が刻まれている。耳塚の歴史については琴秉洞『増補改訂 耳塚』(総和社1994年刊)に詳しい。国指定史跡「方広寺石塁および石塔」(昭和44年指定)のうち。

所在地東山区正面通大和大路西入南側
位置座標北緯34度59分29.5秒/東経135度46分13.4秒(世界測地系)
建立年1898年
建立者(方広寺権大僧正泰良カ)
寸 法高169×幅122×奥行34cm
碑 文
[北]
與隣敵交兵欲宣国威而已矣非悪其人而戮之也春秋*之役楚人請築京観楚王」
不可曰古者明王伐不敬取其鯨鯢而封之以為大戮於是有京観今罪無所而民皆」
尽忠以死君命又可以為京観乎論者以為盛徳然未若我豊太閤之仁及枯骨其徳」
為更深也按史征韓後役我軍連捷諸将有所斬獲截敵鼻献功其数幾万公喜其勝」
賞其功而愍彼士為国致命埋其獲於京都大仏之前為築墳塋立大卒塔婆名曰鼻」
塚請五山僧呂四百人大修供養資其冥福時慶長二年九月廿八日也相国寺承兌」
撰其文美公之不分恩讎不論彼我深垂慈仁以設平等供養夫恩及海外可謂広矣」
况於交戦之敵国乎推公此心謂之行今日赤十字社之旨於三百年前豈其不可哉」
世徒謂公豪雄英武誇大自喜因以此塚比京観而誰知其慈仁博愛而有礼如此之」
深哉塚後訛称曰耳塚物換星移豊氏絶祠而塚独儼存巍然為平安之偉観四方観」
光之客弔古之士無不徘徊顧望于其下欽当年之偉業感豊公之慈仁者此地旧属」
妙法院故以時修仏事而世変多故久委荒残矣今茲豊公功臣愛将之裔与同志者」
#謀将修公墓以行三百年祭而未及此塚心竊恨焉方広寺原董権大僧正泰良以」
此塚與大仏関係尤深欲修営建碑期豊公祭大修追弔供養之式予亦以妙門嘗掌」
豊国廟尤喜其事有所斡旋既得官準京都市給金若干円以助之其旧部内亦附以」
其前地於是広募資用以起其役乃築乃修材良工励以一月三日経始以三月廿日」
竣功宏荘完堅比旧時有加焉陸軍大将大勲位功二級彰仁親王聞而嘉之賜以題」
字可謂栄矣夫此塚者邦威拡張之符表豊公盛徳之遺物而朝鮮者与我輔車相依」
唇歯相保迩年我国率先万国扶其危匡其傾明其独立為之大戦以完隣邦之交誼」
則於其旧時亦能無感乎豊公既行之乎交戦之日今日則為友邦豈可不益尽其道」
哉嗚呼十方衆生一視同仁三界万霊平等利益希以此修営保其物以此供養資其」
福奮武之跡慈仁之挙大顕於世且両国隣交益加厚東洋平和永莫渝乃記其事勒」
貞a以垂不朽
         明治三十一年三月廿日
                                                   陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
                                          前天台座主大僧正妙法院門跡村田寂順撰文
碑文の大意ここをクリック
調 査2008年2月22日
備 考題額部剥落「耳塚修営供養碑」か/碑文は剥落部が多く明治31年3月9日付京都日出新聞掲載碑文および碑文代作者湯本文彦の原稿により補った


碑文中「*」字
碑文中「#」字

位置図
位置図

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