坂本龍馬お龍「結婚式場」跡

HI142

さかもとりょうまおりょうけっこんしきじょうあと
石碑(0028106)石碑周辺(0028107)

 (解説は本碑の西に隣接する副碑碑文にゆずる)

所在地東山区三条通白川橋東入南側(東山ユースホステル前)
位置座標北緯35度00分33.2秒/東経135度46分54.7秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者NPO法人京都龍馬会
寸 法高120×幅18×奥行18cm
碑   文
[北]
坂本龍馬   妻お龍「結婚式場」跡
[東]
此付近   青蓮院塔頭金蔵寺跡
[西]
二〇〇九年九月
   特定非営利活動法人   京都龍馬会   建之
[南]
父實   母エイ   結婚五十年紀念
寄贈者   高崎市   清水一郎
土地提供   東山ユースホステル
[副碑北]
   当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
   元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわ」
ち内々の結婚式をしました。
   龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1869年(明治32年)ごろに」
聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
   一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡」
慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は」
根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。」
   この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であっ」
たためでしょう。その縁により金蔵寺住職智足院が仲人をつとめました。
   当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。」
しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走し」
ます。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人」
はながく別居夫婦だったのです。
   当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。
                                                            歴史地理史学者   中村武生
調 査2009年10月1日
備 考副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト

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