土佐志士寓居跡

HI146

とさししぐうきょあと
石碑(0028393)石碑周辺(0028394)

 (解説は碑に添えられた解説板にゆずる)

所在地東山区新瓦町東組(三十三間堂南大門東)
位置座標北緯34度53分12.7秒/東経135度46分21.8秒(世界測地系)
建立年2010年
建立者NPO法人京都歴史地理同考会
寸 法高110×幅18×奥行15cm
碑   文
[南]
               坂本龍馬
この付近                  など土佐志士寓居跡
               北添佶摩
[東]
大仏(方広寺)旧境内南限
[西]
池田屋事件もうひとつの舞台地
[北]
二〇一〇年四月
   特定非営利活動法人   京都歴史地理同考会建之
   名古屋市瑞穂区 古橋明子寄贈
[解説板]
   当地東山には、ながく「大仏」がありました。豊臣政権が造営し、徳川政府が維持したもの」
です。その寺の名を、江戸時代以後、方広寺といいました。
   現在も同寺は存在しますが、当時はいまと比較にならない広さで、三十三間堂(蓮華王院」
本堂)や法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。現在地はその南限にあたります。」
蓮華王院南大門(正しくは「大仏南門」)と太閤塀はそのなごりです。その前(南側)の道も、」
一般には塩小路通とよびますが、「大仏南門通」とも別称されています。付近にある「大仏」
変電所」の名もそれゆえです。
   幕末期、この大仏南門近くに、坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいました。ここで龍馬」
は、妻楢崎龍(のち鞆。龍馬の死後再婚して西村ツル)と出会うことになります。たまたまそ」
の母貞と末妹君江が同所で賄いをしていたからです。
   このことはお龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されています。すなわち「大仏南の門の今」
熊の(野)道」の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意か)の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山」
(本山)七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋」
寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と」
同居していたといいます。
   が、これが事実かどうか、ながくわかりませんでした。これを裏付けたのが、お龍の回想にも」
出てくる北添佶摩の書簡でした(元治元年〈1864〉5月2日付、母宛)。そこに「私儀は此節は、」
洛東東山近辺瓦町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく」
相暮し居候」とあるからです。当地の南向かいの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬ら」
と暮らしていた地であったにちがいありません。
   当地は同元治元年6月5日、新選組を有名にした池田屋事件の際、龍馬や北添らの住居
であったため、京都守護職などの役人に踏み込まれます。龍馬らは不在でしたが、貞や君江が連行」
されました(まもなく釈放)。ちなみに北添はこの事件で戦死します。その後の8月初旬、帰っ」
てきた龍馬は、お龍と青蓮院塔頭金蔵寺(現東山区三条通白川橋東入ル南側)で内」
祝言(内々の結婚式)を挙げることになります。
   以上の理由から、当地を重要な幕末史蹟として建碑し、顕彰するものです。」
                                                                                    2010年5月
                                                            歴史地理史学者   中村武生
調 査2010年5月28日
備 考解説板は碑の背後の壁面に掲げられ横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト

位置図
位置図

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