幕末志士葬送の道

HI149

ばくまつししそうそうのみち
石碑(0028824)石碑周辺(0028825)

 (解説は本碑の西に隣接する副碑碑文にゆずる)

所在地東山区桝屋町(霊明神社神葬墓地前)
位置座標北緯34度59分55.2秒/東経135度46分55.1秒(世界測地系)
建立年2010年
建立者NPO法人京都龍馬会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑   文
[北]
坂本龍馬
                  など幕末志士葬送の道
中岡慎太郎
[西]
この東南  吉村虎太郎ほか天誅組志士墓所跡
[東]
正法寺
               参道
霊明神社
[南]
二〇一〇年一〇月  特定非営利活動法人  京都龍馬会建之
[副碑北]
   この道は、当地の東突当たりにある霊鷲山正法寺の参道です。「霊山正法寺道」などといいます。」
その境内に、文化6年(1809)、地下(六位以下の貴族)の村上都トが霊明社(現霊明神社)を創建しました」
(霊明神社文書)。徳川幕府の宗教政策により、原則すべての国民が仏教徒とされていた時代に、」
神道による葬式(神葬祭)を始めたのです。
   幕末期、3代目神主村上丹波都平のとき、神葬祭を進める長州毛利家などと縁ができ、在京志士の」
葬送・祭祀の地とされてゆきました。
   文久3年(1863)7月29日、長州系志士である土佐の吉村虎太郎が、前日に亡くなった友人宮地宜蔵の」
埋葬・祭祀を依頼したり(同日付村上都平宛吉村虎太郎書翰)、元治元年(1864)3月4日、長州の久坂」
義助(玄瑞)が、先祖の永代供養を任せたほか(同年3月25日付書翰)、同年6月7日、池田屋事件で」
亡くなった吉田稔麿らの遺体を長州屋敷が埋葬したことはほんの一例です(同年6月13日付里村」
文左衛門ほか宛塩屋兵助ほか書翰)。
   慶応3年11月17日(1867年12月2日)夜,2日前に河原町蛸薬師の近江屋新助方で、京都見廻組の」
襲撃を受けた坂本龍馬・中岡慎太郎・龍馬の家来藤吉も霊明社に葬られました(同年12月4日付」
中岡源平宛清岡半四郎書翰)。彼らの遺体はこの道を通ったに相違ありません。」
   維新後は、明治新政府の方針で、霊明社・村上氏の所有地の大半が没収(上知)され、創建まもない」
東山招魂社に譲られてしまいました(霊明神社文書)。現在、龍馬らの墳墓がその後身である霊山」
護国神社の所有・管理とされているのは、以上の理由によります。
   長州志士や龍馬らの遺体が、もともとこの道を通って霊明社に託されていたという歴史事実を忘れては」
なりません。幕末史蹟としての霊明神社を認識され、龍馬らの墓参(霊山護国神社の参拝)とあわせて、」
霊明神社へもお参りくださることを願います。
   なお背後の墓地には、もと「土佐高知藩神霊社」があり、東側の小高い部分(現在マンションの」
建っている地)には、大和国(現奈良県)で挙兵・戦死した、前述の吉村虎太郎ら天誅組志士の墓が」
ありました。現在は霊山護国神社内に移されています。
                                                            2010年(平成22年庚寅)10月
                                                            歴史地理史学者   中村武生
調 査2010年11月19日
備 考副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト

位置図
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