佐藤政養招魂碑 碑文の大意
 故鉄道助佐藤氏が亡くなったその翌年,夫人村田氏が東京から来てわたし(碑文筆者国重正文)に涙ながらに言うことには「佐藤家の先祖嗣信・忠信の墓は古くから京都方広寺の門外にあるが,長年の間に荒れ果ててしまった。夫は生前にこのことを残念に思い,墓の土地を購入し補修した。また父某の碑を先祖の墓のそばに建て(父の墓とは別に)招魂の所とした。 のち夫も没し,現在遺族が夫の碑を先祖ゆかりの土地に建て,幽魂のよりどころとしたいと計画している。その碑の碑文を書いてもらえないだろうか」と。わたしは佐藤氏と長い交友があり辞退するわけにはいかなかった。
 佐藤氏の行状(履歴)によれば,氏は諱が政養,小字は与之助といい,酒田県羽後の人である。性格は温厚。若いときからオランダの河川管理学を学び,とくに火技(銃砲術?)と測量術にくわしかった。はじめは幕府に仕え,のち新政府の官吏となり鉄道助に昇進し正六位に叙せられた。病気で辞職し,しばらくして明治10年8月2日に亡くなった。享年57。東京青山墓地に葬られた。静岡県人中村敬宇氏が墓の碑文をつくった。
 わたしが思うに,佐藤氏の先祖である継信・忠信兄弟は命に替えても忠義を尽くした人物で,そのことは歴史に照らしてあきらかである。佐藤政養氏もまた継信・忠信兄弟の子孫であるから皇室に忠義を尽くし栄典を授けられた。まさしく忠臣の子孫としてはずかしくない功績である。祖先兄弟の忠節もまた佐藤氏によって大いに世に知られた。偉大なことである。
 わたしが佐藤氏と深い交友を結んだのはこういった一族の美点を知るからでもある。その交友のゆえに以上のとおり碑文を記す次第である。佐藤氏のひとがらや生活、および学術や功績の後世に伝える価値のあるものは、墓誌や家譜にくわしいので、ここでは略す。