前田正名碑 碑文の大意
【碑陽(西面)】
富国強兵豈無術  国を富まし兵を強くするには方策がある
厚生利用在民安  国民の生活を豊かにし安定させてやることである
丹心惟有皇天鑒  わたしは誠実にこの方策を進めてきた この事はお天道さまもご存じ
至老不辞行路難  年をとっても困難に屈しはしないぞ

【碑陰(東面)】
 前田正名氏は旧鹿児島藩士前田氏善安の二男である。小さいころから園芸を好んだ。九歳になった時先生について洋書を習った。明治初年【二年】)派遣されてパリに留学した。学業を終え外務書記生に任じられ,そのまま在仏公使館に勤務した。
 勤務すること四年,その間フランスは普仏戦争に敗けたばかりであったが,戦後復興のため万国博覧会開催を決めた。前田氏は日本製品を紹介し販路を開拓する好機だと,願って帰国し関係者を説得した。明治十年,事務官長に任命されパリ万博参加の事務を指揮した。万博開催に先だちフランスへ渡航し,閉会後に帰国した。西洋人にわが国物産の良さを知らせることができたのは前田氏の努力による。
 時にわが国は外国貿易を始めたばかりで,輸出品はほとんど外国人の手で輸送販売され,貿易の主導権を奪われ,利益は流出するばかりであった。前田氏はこの状況を慨嘆し,フランスから帰国し『直輸貿易意見』(『直接貿易意見一斑』)と名づけた挽回策を公にした。この意見書をもって主要な関係者を説得した。それから全国をめぐり直接貿易の利を説いた。当時の人は理解できず,批難する者が多かった。前田氏は少しも屈せず,いよいよ盛んに自説を唱えた。明治十四年のことである。
 明治十四年に大蔵大書記官に任ぜられ,その後農商務大書記官に転任し外国出張を命じられた。米国経由で欧州に渡航し,一年を経て帰国した。帰国後経済発展・産業振興の方法を網羅した五十巻にもなる『興業意見』を著した。明治二十二年,農商務省工務局長から同省農務局長に移り,翌年農商務次官に昇任した。ついで元老院議官に移ったが,ほどなく病のため辞職した【実は非職】。
 最初前田氏は直輸貿易を画策し,帝国銀行の創立,貿易会社の設立,生産者団体の結成,以上三事を急務とした。その後横浜正金銀行や各港の貿易会社は次々に創立されたが,生産者団体だけは設立のきざしがなかった。前田氏はこれを残念に思い,自分で自由に奔走しようと奮起した。それから全国至る所へ出かけ,行った先々で団結の必要を説いた。またたびたび海外へ出かけ,広い視点から誠実に指導した。
 その成果として茶業会,次に五二会が設立され,さまざまな分野の産業団体が結成された。そして全国を八区に分け,毎年区大会全国大会を開き方針を決定した。また各種博覧会を開催し技能の向上に役立てた。前田氏は各区を巡回し指導した。まだ民間商業には運動が及んでいないのが心残りだった。前田氏は敬意をもって「【全国行脚の服装から】白衣の農相」とよばれた。
 大正十年,前田氏は九州へおもむき博多で病にかかり,八月十一日に亡くなった。弘化三年三月に生まれ享年七十六。生前貴族院議員に選ばれ藍綬褒章を授けられていた。亡くなった日に正三位勲二等に叙せられ男爵を授けられたが,本人が知ることはなかった。
 前田氏は産業振興をみずから任務としたが,功績を求めることはなかった。人民の利益を図ることも正直を本とした。かつて『所見』という文章を公にし,忠孝を勧めうわついた心を戒めた。集会ではかならず天皇の肖像を拝してから開会した。ふだんは楽しみを追うこともなく,正しいと思ったことを実行する時はどんな艱難辛苦もいとわなかった。
 フランスに留学していた時,【普仏戦争で】パリはプロシア軍に包囲された。前田氏は自分から希望して防禦軍に入り苦労した。大正八年に第一次大戦の講和会議【ベルサイユ会議】が行われた時,単身フランスへ渡り,旧知の要人の間を奔走し【「フランスのために」カ】尽力した。天下と苦しみを共にするという性格は最期まで衰えることはなかった。
 没後,国内の友人知人らの思慕は止むことなく,京都の知恩院に石碑を建てその情をあらわすことを企画した。京都は産業の中枢であり,知恩院は五二会結成の地である。山門の北の見晴らしのよい広い場所を選び,碑面には富岡鉄斎先生が前田氏に贈った詩画を刻んだ。鉄斎先生は前田氏と旧交を結び,前田氏の心をもっともよく知る人である。またわたくし【内貴】甚三郎は早くから前田氏の知遇を得ていたので,碑陰の文を求められ,辞退するわけにはいかなかった。そこで見聞きしたことから選んで文を作った。家系や遺族のことは家譜があり,官僚としての履歴は同僚がいる。逸話のたぐいには触れなかった。ただ国民の生活や国家経済に関することだけを叙述した。前田氏の本意に背いていないことを願う。