博労尼講詰所趾碑 碑文の大意
 18世紀初頭正徳年間,大阪三軒家に妙証尼という女性がいた。塩屋吉郎兵衛の母である。真宗の信仰篤く,信者を勧誘し講社を結成し,毎年畳表を新調し大谷本廟へ寄進した。享保8年,寂如門主は消息を授け大阪博労尼講と命名し,その上に大谷本廟内に土地を与え詰所を設置させ,参拝に便利なようにはからった。この時からこの講はますます発展した。のちに家具や食器の調達に尽くし,門主からはさらに激励の消息を授けられた。以来久しく今日に至るまでこの講はつつがなく存続している。
 近年に至り交通の便が開け,この詰所が宿泊に用いられることがなくなった。そこで土地を返還し建物を寄進した。詰所はなくなっても,妙証尼の功績は忘れることができない。また博労尼講の功績も大きなものがある。ここにその経緯の概略を述べ詰所趾の碑とする次第である。