鳥羽伏見戦跡碑 碑文の大意
 鳥羽は洛南の名勝の地である。白河天皇が離宮をここに建設され,鳥羽天皇が拡張された。歴代の天皇はしばしば行幸し楽しまれたことは歴史書に載るところである。離宮がいつ廃止されたかはわからない。この地の人は今なお秋の山一帯を城南離宮とよぶ。秋の山に真幡寸神社があり,古くは城南神社という。鳥羽氏が代々神官として仕えている。
 明治元年正月,官軍は徳川方を鳥羽街道で大敗させた。このことで鳥羽の名は有名になった。当時,徳川慶喜は大坂城にいて,会津藩・桑名藩などの兵を京都に派遣した。軍勢は鳥羽経由と伏見経由の二つのルートを通り,薩摩藩・長州藩などの兵は,天皇の命令によりこの二つのルートを守備していた。鳥羽ルートには薩摩藩が当り,正月三日の日暮れに秋の山で衝突した。しばらくはげしい戦闘が続き,賊軍(幕府軍)は敗走した。伏見ルートでも同時に戦闘が始まり,同様に官軍が勝利を収めた。官軍は逃げる幕府軍を追撃した。慶喜はあわてて江戸へ帰り,官軍にはむかったことを謝罪した。その後,東北で官軍にさからう者はいたが,ひと月で官軍に掃討された。
 鳥羽伏見の戦は実に戊辰戦争の発端をなすものである。今を去ること四十五年。こんにちでは明治の文明の恵みが行きわたり,戦争のことを尋ねたくても,当時のことを知る人は非常に少なくなった。そこで真幡寸神社社司鳥羽重晴氏は鳥羽の有志と相談し,維新の偉業の基礎となった場所に石碑を建て,現在の日本の発展を記念することを計画した。そこでわたし(筆者小牧得業)に碑文を依頼された。そこで鳥羽伏見戦の概要を記し,あわせて鳥羽離宮のことを添えた。これもまた古いことを究明する者にとっては見過ごすことができない。