療病院碑 碑文の大意
 病にかかれば学問をしようと思ってもできないし、努力しようと思ってもできない。学問もせず努力もしなければ才能をのばし家を豊かにすることもできないのだ。(その結果として)人材が乏しく人民が貧しい状態になる。これは国の病である。だから政治の要点は人民の病気を治療し、健康を保つことが何より大切である。
 わが京都府では維新の精神に則り早くから種痘術や疫病を避ける法を実施した。また名医を外国から招聘し、衛生医薬の技術を改良し、大いに人民を救おうとしているところである。明治5年、東山の青蓮院に始めて療病仮院を設置した。ただちに本院を建設しなかったのは、天皇が東京に行かれてから京都は衰退し、経費を支出する余裕が無かったからである。
 そこで(遊所に醵金させ)浮業を抑制し節約に節約を重ねて資金の捻出をはかった。援助をする者も年ごとに多くなり、明治7年10月、ついに荒神口の現在地に土地を選定することができた。その三年後、天皇の西日本巡幸時に、お手元金2500円と宮中の建物を賜りお誉めのことばをいただいた。
 ことし(明治13年)7月に竣工し、起工より9年を費やし、経費は59311円にのぼった。その難事であったことは想像にかたくない。その敷地はおよそ200畝(20万平米)、建物には講義室3、病室29があり、そのほかに手術室や診療所がある。製薬局から教師館、学生寮に至るまで完備していることは実に偉観である。
 このような立派な病院は、上は天皇の恵みと下は人民の奮闘があったからこそできたものである。病院が完成したからには、人々の病気を治療し、健康を保つことはむずかしいことではない。
 こののちも京都の為政者はこれらのことの起りをよく考え、対処をまちがえず、人民が永く明治の皇室の恵みに浴するようにしてほしい。ここに療病院の顛末を石碑に書いて後の世の人に伝えようとするものである。