西陣碑

KA085

にしじんひ
石碑(0005559)石碑周辺(0005564)

 西陣の地名は,応仁の乱の際,西軍方の陣が敷かれたことに由来する。平安時代にはこの地に織部司がおかれ,中世にはその流れを汲む大舎人座が機業に携わっていた。応仁の乱で織工は一時疎開していたが,乱後再び復興した。近世以降,西陣織の生産地として,日本を代表する高級織物業の中心地となり現在に至る。東は堀川通,西は七本松通,北は今宮神社御旅所,南は一条通または中立売通で囲む一帯を西陣と呼ぶ。この石標は西陣の由来を記すものである。

所在地上京区今出川通大宮東入北側(京都市考古資料館前)
位置座標北緯35度01分46.5秒/東経135度44分59.1秒(世界測地系)
建立年1928年
建立者三宅安兵衛遺志
寸 法高280×幅145×奥行37cm
碑 文
[南]
西陣【題額】
京都帝国大学総長医学博士荒木寅三郎閣下篆額
古来朝廷ニハ大蔵省ニ織部司アリテ綾錦ヲ織リ及
ビ染物ノ事ヲ掌レリ後其業民間ニ移リ織工等大舎
人座ヲ組織シテ高機ヲ構ヘ大舎人織手師ト呼バル
応仁ノ乱ニ東西ノ両軍京都ニ割拠シテ攻戦十一年
ニ及ビ其間西軍ハ五辻通大宮東ナル山名宗全ノ邸
ヲ中心トシテ堀川以西一条以北ノ辺ニ駐屯セシヨ
リ此一画ヲ呼ンデ西陣トイフ是時ニ当リテ戦乱相
次ギ京都ノ織工多ク難ヲ避ケテ和泉堺ノ海浜ニ居
住セリ堺ハ乱中幕府ノ遣明船発着ノ港トナリ貿易
殷賑ヲ極メタリ乱平ギシ後京都ノ織工帰リテ西陣
ノ地白雲村ニ居リ明ノ織法ヲ伝ヘテ其面目ヲ新メ
タリ天文中大舎人座中三十一人アリシガ元亀二年
其六人ヲ内蔵寮織物司ニ補セラレ御寮織物司ト号
ス天正中豊臣秀吉白雲ノ水質不良ナルヲ以テ新在
家ニ移セリトイフ此前後ヨリ印度支那及ビ西洋諸
国ノ織物ヲ伝ヘテ其業益精シク機業ノ隆盛ヲ来ス
ト共ニ織工ノ家西陣ノ故地ニ櫛比シ西陣織物ノ盛
名宇内ニ喧伝セラル丶ニ至レリ今茲ニ西陣発源ノ
地ヲ卜シテ碑ヲ建テ其来歴ヲ明ラカニス
  昭和三年十一月 文学博士三浦周行撰 山田得多書
[北]
昭和三年秋 稟京都三宅安兵衛遺志建之
調 査2002年2月7日
備 考複製碑(KA064)がある

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