藤原頼長墓副碑

KA130

ふじわらのよりながのはかふくひ
石碑(0027686)石碑周辺(0027687)

 藤原頼長(1120〜56)は,崇徳上皇・源為義らと結び保元の乱を起し敗死した。相国寺総墓地にある頼長の墓あるいは首塚と伝える五輪塔は,もともと左京区東竹屋町(丸太町東大路西入)の現京都大学熊野寮の地にあり『拾遺都名所図会』巻二には「桜塚」と呼び,宇治悪左府頼長の社の旧地とする。
 明治21(1888)年,第一絹糸紡績会社が創設され東竹屋町の地に工場を建て,塚は同工場内に取り込まれた。同社は明治35年に同業会社と合同して絹糸紡績会社となり,同44年に鐘淵紡績に合併された。明治40年に工場増築のため塚を発掘し,五輪塔を相国寺墓地に移し,経緯を記した碑を建てたものである。
 碓井小三郎著『京都坊目誌』(上京第二十七学区)には「(絹糸紡績会社が)敷地狭隘に名を籍り,無情にも之を発き,地を夷ぐ。塚の下に石棺の如きものを発見す。会社は之を相国寺境内に移す。古蹟保存は終に金力の為に犯さる。事業の発達は慶すべきも,史蹟を失ふは亦歎ずべき也」と嘆いている。

所在地上京区相国寺門前町(相国寺総墓地内)
位置座標北緯35度01分58.5秒/東経135度45分38.7秒(世界測地系)
建立年1907年
建立者絹絲紡績株式会社
寸 法高127×幅52×奥行20cm(碑)/高95×最下段幅43×同前奥行43cm(五輪塔)
碑 文
[西]
絹絲紡績株式会社在上京区東竹屋町五十三番地蓋当白川
北殿東部有一古冢安三層小石塔頗為旧物称桜冢或云桜左
府訛宇治左府首冢也按此地蓋   崇徳上皇及左府霊社旧地
元暦元年四月十五日勅建至嘉禎二年以水害少移其東初保
元之乱左府負傷奔殞於奈良阪就葬差使検屍後贈太政大臣
則此地祠廟而非其墓歟事在吉記愚管抄百錬抄等中古荒廃
僅存此塔世人以為左府首冢都名所図会亦記其事而年代既
久少識者頃会社有増築之事以故準允発掘地中無一物乃卜
此攸運搬其土新築墳塋安塔完修更行法儀以慰其霊因建石
誌其事冀永以無毀損
         明治四十年六月         絹絲紡績株式会社
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調 査2007年8月30日
備 考

位置図
位置図

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