仏頂尊勝陀羅尼碑 碑文の大意
 その昔,インドの仏陀波利という僧侶は遠く唐の五台山へ文殊菩薩の像にまみえるという願いを持ってやってきた。そこで菩薩の化身に会い「中国には罪業にまみれた人が多い。ただ仏頂尊勝陀羅尼というありがたい呪文だけがそれらの衆生を救うことができる。その陀羅尼を中国にもたらしなさい」と励まされた。
 仏陀波利はそれから苦労してインドへ戻り,8年ののち陀羅尼を持って中国へ再来した。時に唐の高宗の代,永淳2(683)年のことであった。高宗は陀羅尼を独占し公開することを禁じた。仏陀波利は「わたしが陀羅尼をもたらしたのは衆生を救済するためでした。なにとぞ広く公開してください」と哀願した。そこで高宗は原本を返還し,仏陀波利はさらに自分で漢訳し広く流通させた。
 弘法大師空海は世の衆生を救うため,日本に渡来したこの陀羅尼を輪の形に書き写し,板に刻み東大寺二月堂に安置した。二月堂が焼けた時,この板は裏が焦げただけで無事だった。東大寺では外に見せることを惜しみ,そのため弘法大師のありがたい心が世に伝わらないので,河内国の僧智満が模写した一本を園城寺法明院の敬彦が得て,これを印刷し諸人に施した。わたし願海はなお広く普及させようと発起し,誰もが見られる北野天満宮に碑を建てることにしたという次第である。