浅見絅斎邸址

NA017

あさみけいさいていあと
石碑(0005408)石碑周辺(0005411)

 浅見絅斎(1652〜1711)は,近江国高島郡太田村出身。京都で医学を学ぶが,山崎闇斎(1618〜82)に心服し入門,門人三傑の一人となった。朱子学者として大義名分論を説き,幕末の志士にその著『靖献遺言』は広く読まれた。この石標は,浅見絅斎が開いた私塾錦陌講堂の跡を示すものである。

所在地中京区錦小路通高倉西入南側
位置座標北緯35度00分18.0秒/東経135度45分44.6秒(世界測地系)
建立年1916年
建立者京都市教育会
寸 法高116×幅18×奥行18cm
碑 文
[西]
浅見絅斎邸址
[北]
大正五年五月建之   京都市教育会
[南]
【金属板後補】
浅見絅斎   (あさみ   けいさい)
      承応元〜正徳元(1652〜1711)
   江戸中期の儒者で名は安正。望南楼と号した。近江国高島郡(滋賀県高島」
郡)の医家に生まれる。京都の山崎闇斎に入門、佐藤直方・三宅尚斎ととも
に崎門三傑といわれた。一生仕官せず、油小路に講舎を設けて研究と子弟の」
教授に勤める。著書に「靖献遺言」「忠孝類設【説カ】」などがある。
調 査2002年2月5日
備 考

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