大村益次郎卿遭難碑

NA084

おおむらますじろうきょうそうなんひ
石碑(0005657)石碑周辺(0005660)

 周防国出身の大村益次郎(村田蔵六,1825〜69)は,緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。のち長州藩に仕え軍制改革を指導した。農民や町人の兵式訓練の必要を説き,第2次長州征伐・戊辰戦争において卓越した指揮を行った。新政府では兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力したが,明治2(1869)年9月4日関西の軍事施設視察時に,反対派浪士に襲われ,11月5日大阪で没した。この石標は大村が襲撃された宿の跡を示すものである。

所在地中京区木屋町通御池上る西側
位置座標北緯35度00分42.3秒/東経135度46分13.2秒(世界測地系)
建立年1934年
建立者高218×幅130×奥行66cm
寸 法
碑 文
[東]
大村益次郎卿遭難之碑
[東面下段銅鋳板]
大村兵部大輔諱永敏通称蔵
六後改益次郎周防国吉敷郡
鋳銭司村人文政七年三月十
日生   壮而博究東西諸邦兵
書安政三年任幕府講武所教
授文久元年転毛利藩兵学教
授慶応二年毛利藩与幕府開
釁隙大輔率藩兵連戦皆捷驍
名大振明治元年官軍戦於奥
羽函館参帷幄奏偉功二年任
兵部大輔陸海軍制及国民徴
兵之制竝定之基礎八月入京
都寓木屋町籌将設立兵学寮
及機器局   九月四日夜為刺
客所襲創甚十一月五日隊薨
年四十七十三日朝廷録其功
特旨贈従三位大正八年追陞
従二位
               昭和九年七月
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調   査2002年2月5日
備   考裏面および側面未調査

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