本能校跡

NA150

ほんのうこうあと
石碑(0027522)石碑周辺(0027524)

 本能校は明治2年(1869)11月に下京第二番組小学校として,この地よりもやや南の空也町で開校し,明治5年に「本能小学校」と改称した。明治6年にこの地を買収して新しい校舎が建てられ,校名も本能尋常小学校・本能尋常高等小学校・本能国民学校と移り変わっていった。この間,大正10年(1921)に校舎を焼失するが,すぐに新校舎を再建している。
 平成5年(1993),近隣の明倫小学校と統合され高倉西小学校が開校したため閉校となった。なお現在は高倉西小学校と高倉東小学校が高倉小学校に統合されている。この石碑は,本能校の跡を示している。

所在地中京区油小路通蛸薬師下る東側(本能特別養護老人ホーム前)
位置座標北緯35度00分20.4秒/東経135度45分13.2秒(世界測地系)
建立年1993年
建立者
寸 法高80×幅120×奥行20cm
碑 文
[東]
本能校跡
[西]
本能校史
   明治二年十一月二十六日、下京二番組小学
校の名称のもとに開校の式典が挙行された。
当時の校舎は間口六間、奥行十五間四尺、敷
地九十四坪で、職員は校長を含めて三名であ
った。明治五年五月、番組が下京二組と改め、
校名を本能小学校と改称された。明治六年に、
家屋七百八十六坪を買収し二百坪の校舎を建
築、校地の拡張と校舎の改造を行った。
明治十年に教室四十八坪が増設され、明治十
六年には新たに教室三十六坪を増床した。明
治二十一年に旧教室の一部を四十八坪の教室
に改築。明治二十二年、本能尋常小学校と改
称された。明治三十五年高等科を併置し、本
能尋常高等小学校と改称。明治三十九年に二
階建二棟十二教室と他に特別教室、雨天体操
場、事務室各一棟並びに事務室の階上を講堂
とした校舎に改築し、校地七百八十六坪、建
坪三百三十七坪七合となった。大正十年二月
一日朝、火災により一瞬にしてその大半を焼
失。当時大不況の中、区民あげて拡築寄付金、
新築寄付金、特別寄付等、三十万円に達する
寄付金を拠出して校地六百六十六坪七合七勺
を新たに買収して大正十二年四月に当時代と
しては府下未曽有の大建築として鉄筋二階建
新校舎が竣工した。昭和十年高等科を廃止し、
本能尋常小学校となったが、昭和十六年本能
国民学校と改称、明治二十年終戦を迎えた。
昭和二十二年本能小学校と改められ昭和二十
四年に京都市教育委員会へ移管され現在に至
った。
   京都市中心部の過疎化、職住分離の進む中
で昭和十四年に七百六名を数えた児童も、平
成五年三月には八十五名に激減し、止むなく
新設校に進学することとなった。
   永遠を信じていた我々も時代の流れには抗
し難く、ここに百二十三年の歴史を閉じる事
となった。ただただ愛借の念、禁じがたく、
本能校跡として止め置く。
         平成五年三月二十五日 閉校の日
調 査2007年3月22日
備 考碑の左右に置かれた石柱は玄関前にあった燈明台座を再利用したもの

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