坂本龍馬妻お龍寓居跡

NA159

さかもとりょうまつまおりょうぐうきょあと
石碑(0028064)石碑周辺(0028065)

 解説は本碑背後の壁面パネルにゆずるが,パネル解説でもいうように正確な場所については特定できない。

所在地中京区木屋町通六角下る東側(高瀬川山崎橋東詰下る)
位置座標北緯35度00分26.4秒/東経135度46分12.9秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者NPO法人京都龍馬会
寸 法高112×幅18×奥行18cm
碑   文
[西]
         坂本龍馬妻
此付近   お龍   独身時代   寓居跡
[北]
         京都府知事
此付近   中井弘   幕末期   寓居跡
[南]
          二〇〇九年三月
   特定非営利活動法人   京都龍馬会   建之
[壁面パネル]
   坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の
長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年
(1862)6月20日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟を
ふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの
借家」に移住します。
   こののち一家は離散し、お龍(鞆)は単身七条新地の扇岩なる店に入り
ます。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五
兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働きました。そ
の縁で龍馬とお龍(鞆)は出会うことになります。木屋町の住居は、その
直前まで住んでいた地として無視できません。
   というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍(鞆)の個性を知るエピソード
に、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が
単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代の
ことです。正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と
愛したお龍(鞆)のゆかりの地として、ここ木屋町通に建碑するものです。
   なお龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流のあった、滋賀県知事
や京都府知事を歴任する中井弘も、中井弘蔵や田中幸助と名乗った幕末
当時、木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿していました。あわせて顕彰し
ます。
                                                            歴史地理研究者   中村武生
調 査2009年4月1日
備 考碑のうしろの壁面に金属製解説パネルが設置されている/パネルの文章は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト

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