吉田松陰拝闕詩碑 碑文の大意
(北面)
京都は山河にかこまれ、おのづから他とは異なる地になっている
江戸へ来てからも、一日としてこの神聖な京都を思わぬ日はない
この朝身を清め御所を拝した
政治に無縁のわたしも悲しみのあまり動くことができない
というのは朝廷の権威と権力が地に落ちて昔に戻ることはなく
周囲の山河だけが変わりなく残っているのがいたましいからだ
もれうけたまわれば、今上天皇は最上の徳をお持ちで
天を敬い人民をいつくしみ誠を尽くしておられる
日出には起きて身を清め
日本にたれこめた妖気をはらい太平をもたらすことを祈られると
いままでこのような英明な天皇はいなかったというのに
役人どもはのんべんだらりと時間つぶしをやっているだけ
なんとかして天皇の詔勅をうけたまわり精鋭なる全軍を動かし
思うままに天皇の権威を世界におよぼしたいものだ
なんて思っていてもわたしはゆくえも知れない浮草の身
ふたたび御所を拝する日が来るだろうか

(南面)
この詩は,故吉田松陰先生が嘉永6年10月に京都へ来て,御所を拝し作った詩の真蹟である。もともと山縣有朋公爵の父有稔翁のために先生が揮毫したもので,息子の公爵に伝えられた。公爵は「この書は松陰先生の精神を体現したものである。私蔵するべきではなり」と考え,宮中に献納した。ことし明治41年10月は松陰先生の五十回忌にあたるので,許しを受け写真に撮影し仲間に配った。京都府教育会員はこの詩を石碑に刻むことを計画し,会長である大森京都府知事がわたし(筆者子爵野村靖)に碑文を依頼されたので,ここに経緯を記すものである。