秦氏と北野廃寺
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北野廃寺跡出土の「鵤室」墨書土器(京都市埋蔵文化財研究所蔵) |
北野廃寺は京都盆地では最古の部類に属する寺院です。太秦(うずまさ)から続く台地の東端に位置し,寺域は北野白梅町(きたのはくばいちょう)の交叉点を中心とした一帯になります。昭和11(1936)年の市電西大路線新設工事の際に遺物が発見され,北野廃寺と命名されました。その後の調査で多数の遺構が発見されており,寺域は北野白梅町交叉点を中心に約200メートル四方と推定されます。
現在,北野廃寺は太秦広隆寺の前身,蜂岡寺(はちおかでら)であるという説が有力です。『広隆寺縁起』によると,蜂岡寺の旧寺地は葛野郡九条河原里と荒見社里という所でした。これは平野神社(北区平野宮本町)の近辺と推測され,北野廃寺の位置と地理的に合致します。
昭和52年の発掘調査では,「鵤(いかるが)室」の墨書のある平安前期の陶器が発見されました。「いかるが」といえば大和国斑鳩(いかるが)の法隆寺であり,そこから聖徳太子との関係が推測されます。『日本書紀』には秦河勝(はたのかわかつ)が推古天皇11(603)年に,聖徳太子より仏像を授かり蜂岡寺を造営したとあり,これが北野廃寺のことではないかと考えられています。また,「秦立」の墨書のある土器も発見されています。
一方で,北野廃寺は平安時代に入って桓武天皇によって建立された常住寺(じょうじゅうじ,野寺)ではないかともいわれてきました。それを裏付けるように昭和54年に行われた調査では,「野寺」の墨書のある平安初期の土器が発見されました。
また,北野廃寺の寺域からは古墳時代から飛鳥時代にかけての竪穴式住居跡がいくつか発見されており,寺の創建との関わりが注目されています。
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