遷都以前の古代寺院
文化史01

せんといぜんのこだいじいん
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古代の寺院

 仏教伝来以降,各地の有力豪族たちは自分たちの精神的支柱としてその本拠地に寺院を建立します。京都においては,多くが盆地を見おろす山すそに築かれました。

 一方で,遷都を果たした桓武天皇は,奈良の仏教勢力をおさえるために,平安京への寺院の移転を一切認めませんでした。平安京内には,官寺として東寺・西寺が建立されただけでした。ただ,平安京域外に遷都以前より存在していた各豪族の寺院については,これを認めました。それぞれの寺院を建立した各地の有力豪族と連携して,平安京の建設に当たるためだと思われます。

 平安中期以降,それらの豪族の力が衰えていくにしたがい,信仰の源である寺院も徐々に荒廃していきました。法観寺(ほうかんじ)や広隆寺(こうりゅうじ)など現在まで残っている寺院もありますが,その多くが衰微し,土の中に埋もれていきました。

 このように,後の時代の発掘によって寺院と判明した遺構を一般的に「廃寺」(はいじ)と呼びます。

秦氏と北野廃寺
北野廃寺跡出土の「鵤室」墨書土器(京都市埋蔵文化財研究所蔵)

 北野廃寺は京都盆地では最古の部類に属する寺院です。太秦(うずまさ)から続く台地の東端に位置し,寺域は北野白梅町(きたのはくばいちょう)の交叉点を中心とした一帯になります。昭和11(1936)年の市電西大路線新設工事の際に遺物が発見され,北野廃寺と命名されました。その後の調査で多数の遺構が発見されており,寺域は北野白梅町交叉点を中心に約200メートル四方と推定されます。

 現在,北野廃寺は太秦広隆寺の前身,蜂岡寺(はちおかでら)であるという説が有力です。『広隆寺縁起』によると,蜂岡寺の旧寺地は葛野郡九条河原里と荒見社里という所でした。これは平野神社(北区平野宮本町)の近辺と推測され,北野廃寺の位置と地理的に合致します。

 昭和52年の発掘調査では,「鵤(いかるが)室」の墨書のある平安前期の陶器が発見されました。「いかるが」といえば大和国斑鳩(いかるが)の法隆寺であり,そこから聖徳太子との関係が推測されます。『日本書紀』には秦河勝(はたのかわかつ)が推古天皇11(603)年に,聖徳太子より仏像を授かり蜂岡寺を造営したとあり,これが北野廃寺のことではないかと考えられています。また,「秦立」の墨書のある土器も発見されています。

 一方で,北野廃寺は平安時代に入って桓武天皇によって建立された常住寺(じょうじゅうじ,野寺)ではないかともいわれてきました。それを裏付けるように昭和54年に行われた調査では,「野寺」の墨書のある平安初期の土器が発見されました。

 また,北野廃寺の寺域からは古墳時代から飛鳥時代にかけての竪穴式住居跡がいくつか発見されており,寺の創建との関わりが注目されています。

粟田氏と北白川廃寺

 京都盆地の東北部に位置する北白川で,昭和9(1934)年の土地区画整理工事の際に,古代寺院の伽藍(がらん)跡が発見されました。主要な遺構として東西35.7メートル,南北22.5メートルの瓦積基壇(かわらづみきだん,外側を瓦で保護した基壇)が見つかり,金堂の跡と推定されています。出土した瓦から,創建は白鳳時代(7世紀後半),平安京遷都以降も存続した寺院と考えられています。

 また,瓦に官営の窯(かま)である小野瓦窯(がよう)や栗栖野(くるすの)瓦窯の製品が含まれているのも特徴です。これは,この寺が朝廷とのつながりが強かったことを示しています。さらに北白川から南禅寺あたりまでが古代の愛宕郡(おたぎぐん)粟田郷(あわたごう)であったことから,この寺は大化改新から奈良時代にかけて活躍した粟田氏の氏寺,粟田寺であったと思われます。

 昭和49年から50年にかけての調査では,白川通の西側から塔跡の正方形の基壇が新たに発見されました。両基壇の南縁がほぼ一直線上にあり,同じ種類の軒丸瓦(のきまるがわら)も発見されたことから,同一の寺院の遺構であると考えられます。ただ,両基壇の距離が約85メートルも離れているため,同じ区域に独立して存在していた別の寺院であるとも考えられます。金堂院と塔院が並存する伽藍配置は,7世紀後半の山背(やましろ)北部の古代寺院の地域的特色であるという説も出ています。

樫原廃寺
樫原廃寺八角塔模型(京都文化博物館蔵)

 樫原(かたぎはら)の地は京都盆地の南西,京都の街並みを見おろすことができる,長岡丘陵の東端に位置しています。附近には百々池(どどいけ)古墳・天皇の杜(もり)古墳・一本松塚古墳など古墳時代の遺跡があり,古くから開発されていたことがわかります。戦前からその存在が知られていた樫原廃寺は,昭和42年の調査によって具体的な姿が明らかとなりました。

 発見された遺構は,八角塔の瓦積基壇,中門とそれに続く回廊,東西築地(ついじ,土塀)などです。中門・塔・金堂・講堂が一直線上に並ぶ四天王寺式伽藍配置と推定されています。遺物の状況から,7世紀中葉の創建と考えられ,平安時代中期には廃絶したものと思われます。

 注目すべきは八角塔の基壇です。八角形の1辺の長さは約5メートルあり,三重塔であったと推測されます。奈良法隆寺夢殿など八角円堂はいくつか見られますが,7世紀の八角塔の基壇は他に例がありません。なお,現存する八角塔は,長野県の安楽寺八角三重塔の1基だけです。

 出土した瓦や八角塔のある特殊な伽藍配置などから見て,高句麗の影響を多く受けて建立されたものと思われます。

大宅廃寺

 昭和33年山科東南部の大宅(おおやけ)の地で,名神高速道路の建設に伴って寺院の伽藍跡が発見されました。これまでの調査では,東西約27メートル,南北約15メートルの石積基壇や,掘立柱建物,土壇状遺構などが発見されています。出土品などから創建は白鳳時代であり,平安時代前期に全焼した後に,小規模な堂が建てられたものと思われます。

 大宅廃寺は,中臣鎌足(614〜69)建立で奈良興福寺の前身といわれる山階寺(やましなでら,山階精舎)であるとする説や,平安前期の大領(だいりょう,郡司の長官),宮道弥益(みやじのいやます,生没年未詳)の妻のために建てられた堂であるという説など様々ありますが,この地を地盤とする豪族,大宅氏の氏寺とする説が有力です。

出雲寺(上出雲寺)

 出雲寺(いずもじ)は上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町・馬場町・相国寺門前町(上御霊神社境内附近)にあったとされる古代寺院です。この附近は古代の出雲郷であったことから,出雲氏の氏寺ともいわれています。また,延喜式七大官寺の1つ御霊寺に当たるとされています

 附近で出土した瓦や上御霊神社に保管されている瓦などから,創建は奈良時代前期と考えられます。平安時代には御霊信仰と結びついていました。金堂・講堂・食堂・鐘楼・経蔵などがあり栄えたようですが,平安後期には荒廃しました。『今昔物語集』巻第二十の中で,その荒廃の様子が語られています。

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平安京周辺古代寺院分布図
京都市内のその他の廃寺遺跡
  • 南春日町廃寺 (西京区大原野南春日町)
  • 板橋廃寺 (伏見区指物町・下板橋町・御駕籠町)
  • おうせんどう廃寺 (伏見区深草鞍ヶ谷)
  • 小野廃寺 (伏見区醍醐大高町・片山町・古道町)
  • 御香宮廃寺 (ごこうぐうはいじ,伏見区桃山町松平筑前・鍋島町・御香宮門前町)
  • 醍醐廃寺 (伏見区醍醐西大路町・御霊ヶ下町)
  • 法琳寺 (ほうりんじ,伏見区小栗栖丸山町・北谷町・西谷町)
  • 元屋敷廃寺 (もとやしきはいじ,山科区大塚元屋敷町・大岩)
(『京都市遺跡地図台帳』〈平成15年版〉より創建が平安遷都以前のものを抜粋)
北野廃寺跡 北区北野上白梅町
北野廃寺跡

 北野廃寺の寺域は北野白梅町の交叉点を中心に,約200メートルと推定されています。現在北野白梅町交叉点の東北隅に,石標が立っています。

史跡 樫原廃寺跡 西京区樫原内垣外町
樫原廃寺八角塔基壇

 樫原廃寺跡一帯は昭和46年に国の史跡に指定されました。その際,八角塔の基壇が復元され,周辺は公園として整備されました。

大宅廃寺跡 山科区大宅山田町
大宅廃寺跡

 現在発掘地は大宅中学校の敷地となっており,石標が立っています。

法観寺 東山区八坂上町

 「八坂の塔」で知られる法観寺は,聖徳太子の創建とも伝えられますが,遺物などから白鳳時代(7世紀後半)の創建と考えられています。古代八坂郷の渡来系豪族,八坂造(やさかのみやつこ)が創建に関わったといわれています。現在,法観寺境内は京都市の史跡に指定されています。なお,「八坂の塔」(五重塔)は永享12(1440)年に再建されたもので,国の重要文化財に指定されています。

珍皇寺 東山区小松町

 「六道詣り」で有名な珍皇寺の創建については諸説ありますが,出土した遺物などからは奈良時代の創建と推定されています。その後焼亡と再建を繰り返し現在に至っています。

広隆寺 右京区太秦蜂岡町

 太秦広隆寺の創建ははっきりしませんが,その旧境内地からは飛鳥時代から平安時代にかけての瓦が出土しました。飛鳥時代には,すでにこの地に寺院が建てられていたものと思われます。

京都市考古資料館 上京区今出川通大宮東入

 常設展示室の各時代ごとの遺物を紹介するコーナーに,北野廃寺出土の塑像仏(そぞうぶつ)や軒丸瓦,北白川廃寺塔跡のパネルなどが展示してあります。


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