八代集
文化史04

はちだいしゅう
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八代集とは

 平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて撰集された8つの勅撰和歌集の総称で,具体的には『古今和歌集』(こきんわかしゅう)『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)『金葉和歌集』(きんようわかしゅう)『詞花和歌集』(しいかわかしゅう)『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)を指します。八代集という区分は,早くは南北朝時代の武将・歌人今川了俊(いまがわりょうしゅん,貞世,1326〜?)の諸著に見ることができます。

 これらの和歌集は,前代の漢文学の象徴ともいえる六国史(りっこくし)や勅撰漢詩文集の美意識や表現方法を,我が国固有のものへと昇華させたものです。

 特に,第四勅撰和歌集『後拾遺和歌集』のあたりから,これまでの王朝和歌だけでなく口語や俗語による世俗社会の情景を詠んだ連歌が多く見られるようになっており,勅撰和歌集はここで一つの転換期を迎えています。

古今和歌集

 醍醐天皇(885〜930)の命を受け,紀友則(きのとものり)・紀貫之(きのつらゆき)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)が撰した我が国最初の勅撰和歌集です。なかでも紀貫之が編集の中心となって活躍したと言われています。

 従来の和歌は恋愛・遊宴などの私的な世界を詠んでいましたが,この頃になると,我が国の風物を描いた大和絵屏風の画賛を詠んだ屏風歌や,左右に分かれて勝負を競い合う歌合などにより,宮廷歌へ変質していったと考えられています。

 本集は,和歌に関する撰者の見解や本集の成立経過などを記した序文と,春(上・下),夏,秋(上・下),冬,賀,別離,羇旅(きりょ),物名,恋(一〜五),哀傷,雑(上・下),雑体,大歌所御歌・神遊びの歌・東歌の20巻,約1100首の歌からなります。そしてこのような構成は,その後の勅撰和歌集にも多く踏襲されていきました。つまり本集は,以後の和歌集,ひいては日本文化の規範となった書ともいえるのです。

『新古今和歌集』文明14(1482)年の写本(京都府立総合資料館蔵)
後撰和歌集

 2番目の勅撰和歌集で,村上天皇(926〜67)の命を受け,藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)・清原元輔(きよはらのもとすけ)・紀時文(きのときふみ)・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・源順(みなもとのしたごう)・坂上望城(さかのうえのもちき)が,天暦9(955)年から天徳2(958)年正月までの間に撰した和歌集です。

拾遺和歌集

 3番目の勅撰和歌集で,『後拾遺和歌集』の序文には花山法皇(968〜1008)の撰と記されていますが,その成立事情や撰者については不明な点が多い和歌集です。

 ただ,当時の公卿で歌人としても有名な藤原公任(ふじわらのきんとう)が撰した『拾遺抄』(10巻本)が増補されてできたこと,さらには作者の官位の表記や収録されている歌の詠作年時などから見て,寛弘2(1005)年6月から同4年正月までの間に作成されたと考えられています。

後拾遺和歌集

 4番目の勅撰和歌集で,白河法皇(1053〜1129)の命により,藤原通俊(ふじわらのみちとし)が応徳元(1084)年から同3年9月までの間に撰した和歌集です。

金葉和歌集

 5番目の勅撰和歌集で,白河法皇の命により源俊頼(みなもとのとしより)が天治元(1124)年以降に撰した和歌集です。

詞花和歌集

 6番目の勅撰和歌集で,崇徳上皇(すとくじょうこう,1119〜64)の命により,藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)が天養元(1144)年から仁平元(1515)年までの間に撰した和歌集です。

千載和歌集

 7番目の勅撰和歌集で,後白河法皇(1127〜92)の命により,藤原俊成(ふじわらのとしなり)が寿永2(1183)年2月から文治5(1189)年8月頃までの間に撰した和歌集です。

 一条天皇の正暦年間(990〜95)から後鳥羽天皇の文治年間(1185〜90)にいたる17代,約200年間の歌を収録するとともに,文治3年3月に後白河法皇が高野山で保元の乱以来の戦死者の追善法要を行ったことに基調を置く,詠嘆述懐調の歌が多く収められているのが特徴です。

新古今和歌集

 8番目の勅撰和歌集で,後鳥羽上皇(1180〜1239)の命により,源通具(みなもみちとしとも)・藤原有家(ふじわらのありいえ)・藤原定家(ふじわらのさだいえ)・藤原家隆(ふじわらのいえたか)・飛鳥井雅経(あすかいまさつね)・寂蓮(じゃくれん)らが,建仁元(1201)年7月から元久2(1205)年3月までの間に撰した和歌集です。ただし改訂作業はその後も続けられました。

 序文に加え,春(上・下),夏,秋(上・下),冬,賀,哀傷,離別,羇旅,恋(一〜五),雑(上・中・下),神祇,釈教の20巻,約1980首の歌からなっています。

 本集には感覚と想像力を高揚させた歌が多く,歌集全体が優雅・優艶・華麗であることを特徴としていますが,また時代を反映した幽寂な歌も収録されています。『古今和歌集』とともに八代集のなかで最も尊重され,中世の歌学思想に多大な影響を与えました。加えて中世後期には連歌の文学的源泉となるとともに,謡曲などにも用いられました。

 また本集が尊ばれる最大の理由としては,その撰者の一人に,中世歌壇の指導的位置を占め,その大宗として大いに崇敬を受けた藤原定家がいたことがあげられます。

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小野小町(おののこまち)歌碑 山科区小野御霊町(随心院<ずいしんいん>境内)

小野小町歌碑
 『古今和歌集』(春<下>)に収められている,
花の色は うつりにけりな いたづらに
 わが身世にふる ながめせしまに

という歌が刻まれています。

 これは後世,六歌仙(ろっかせん)の一人に数えられた小野小町の代表的な歌で,小倉百人一首にも採録されました。花の色のうつろいに自らの容色の変化をかけて詠んだ歌といわれています。

 なお,随心院は小野小町の邸宅跡と伝えられ,境内には歌碑以外にも小町愛用の井戸という小野井,小町への恋文を埋めた場所という小町塔(別名文塚),小町化粧橋など,小町ゆかりのものが多くあります。

紀友則(きのとものり)歌碑 右京区嵯峨大沢町(大沢池)

 『古今和歌集』(秋<下>)に収められている,

    大沢の池の形に,菊植へたるを,よめる

一本と(ひともと) 思(おもひ)し花を おほさはの
 池のそこにも 誰かうへけむ

という歌が刻まれています。

 この歌は,宇多天皇の中宮藤原温子(ふじわらのおんし)の菊合で行われた歌合の席上で,友則が大沢池の水面に映る菊を実体的にとらえて詠んだ歌といわれています。

良岑宗貞(よしみねのむねさだ,僧正遍照<そうじょうへんじょう>)歌碑 山科区北花山河原町(元慶寺<がんけいじ>境内)
良岑宗貞歌碑

 『古今和歌集』(雑<上>)に収められている,

    五節舞姫(ごせちのまいひめ)を見て,よめる

天つかぜ 雲の通ひ路(かよひじ) ふきとぢよ
 をとめの姿 しばしとゞめむ

という歌が刻まれています。

 この歌は小倉百人一首にも採録され,天皇が神々と新穀を共食する儀式である新嘗祭(にいなめさい)の豊明節会(とよあかりのせちえ)に出演する童女(わらわめ,舞姫)について,その美しさをもう少し見ていたいとの思いを詠んだものと考えられています。

 僧正遍照は六歌仙の一人として知られています。その歌碑が元慶寺にあるのは,当寺が陽成天皇が誕生した際に彼の発願で建立されたことに由来しています。

素性法師(そせいほうし)歌碑 山科区北花山河原町(元慶寺<がんけいじ>境内)

 『古今和歌集』(恋<四>)に収められている,

今こむと 言ひし許(ばかり)に 長月(ながつき)の
 ありあけの月を 待ちいでつる哉(かな)

という歌が刻まれています。

 この歌は,恋しい人の訪れを夜明けまでまちわびている情景を詠んだもので,小倉百人一首にも採録されています。

 素性法師は遍照の子で,父の歌碑と並んでこの歌碑も元慶寺に建てられています。

喜撰法師(きせんほうし)歌碑 宇治市山田(宇治神社境内)

 『古今和歌集』(雑<下>)に収められている,

わが庵(いほ)は 宮こ(みやこ,都)の辰巳 しかぞ住む
 世をうぢ山と 人はいふなり

という歌が刻まれています。

 作者の喜撰法師は六歌仙の一人に数えられ,この歌は小倉百人一首にも採録されました。当時,彼が心静かに暮らすために都の東南の宇治に住んでいたにもかかわらず,世間の人々が「彼は世を嫌って宇治(憂ぢ)に住んだのだ」と言い立てていることを詠んだものです。

貞信公(ていしんこう,藤原忠平<ふじわらのただひら>)歌碑 右京区嵯峨小倉山町(常寂光寺<じょうじゃくこうじ>境内)

 『拾遺和歌集』(雑秋)に収められている,

小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
 今一度(ひとたび)の 行幸(みゆき)待たなん

という歌が刻まれています。

 この歌は摂政・関白藤原忠平の詠んだ歌とされ,小倉百人一首にも採録されました。大堰川(おおいがわ)に御幸して景色のすばらしさに感激した宇多上皇の,醍醐天皇にも行幸して欲しいという意向をくんで詠まれたものと言われます。

清少納言歌碑 東山区泉涌寺山内町(泉涌寺境内)
清少納言歌碑

『後拾遺和歌集』(雑二)に収められている,

夜をこめて 鳥のそらねに はかるとも
 よに逢坂(あふさか)の 関はゆるさじ

という歌が刻まれています。

 この歌は,書家として著名な公卿藤原行成(ふじわらのゆきなり)が清少納言のもとに通ってきた後日,行成と清少納言との間で交わされたやりとりのなかで彼女が詠んだ歌で,小倉百人一首にも採録されています。

 晩年の彼女は,仕えていた中宮藤原定子(ふじわらのていし)の鳥辺野(とりべの,泉涌寺の背後にある丘陵)近くに隠棲したとの伝承があり,そのため,泉涌寺境内の仏殿脇にこの歌碑が建てられました。

和泉式部歌碑 左京区鞍馬貴船町
和泉式部歌碑

 『後拾遺和歌集』(雑六)に収められている,

   男に忘られて侍ける頃,貴布禰にまいりて,
   御手洗川に蛍の飛び侍けるを見てよめる

もの思へば 沢のほたるも わが身より
 あくがれ出づる たまかとぞ見る

という歌が刻まれています。

 この歌は和泉式部の作で,小倉百人一首にも採録されました。夫藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の気持ちが離れかけていた頃に貴船神社へ参詣した彼女が,思い悩む自らの心理を沢を飛ぶ蛍の火と重ね合わせ,その蛍が自分の中から抜けた魂ではないか,と神に訴えて詠んだ歌と言われています。


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