金閣寺(鹿苑寺)
文化史09

きんかくじ(ろくおんじ)
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金閣寺とは

金閣と鏡湖池
 金閣寺は正式には北山(ほくざん)鹿苑寺(ろくおんじ)といい,臨済宗(りんざいしゅう)相国寺派(しょうこくじは)に属する寺院で,北区金閣寺町に所在します。

 本来は,寺の中心部にある金箔張りの三層楼閣(釈迦の骨を祀る舎利殿<しゃりでん>)を指して金閣といいますが,この建物が大変印象深く有名であるため,現在では寺全体が金閣寺と呼ばれて一般に親しまれるようになりました。

 金閣寺の建つこの地は,鎌倉時代には,幕府とも親しい有力公卿西園寺公経(さいおんじきんつね,1171〜1244の御願寺(ごがんじ)西園寺の堂舎群と山荘北山第(きたやまてい)がありました。

 その後,応永4(1397)年になり,室町幕府三代将軍足利義満(あしかがよしみつ,1358〜1408)がこの地を譲り受けました。義満は西園寺以来の堂舎群を引き継ぐとともに,自身や夫人らの御所北山殿(きたやまどの)を造営し,翌5年にこの地へ移りました。そして義満はこの地を政治・外交の中心とするとともに,北山文化をも花開かせたのです。

 やがて応永15(1408)年5月に義満が没した後も,義満の室日野康子(ひのやすこ,北山院,1369〜1419)はこの地に住み続けました。しかし彼女が同26年11月に死去すると,翌月には北山殿の一部が解体され,南禅寺・建仁寺・等持寺(とうじじ,中京区柳馬場通二条下る周辺にあった足利家菩提寺)などに移築・寄進されました。

 一方,遅くとも応永29(1422)年までに,義満の長男四代将軍足利義持(1386〜1428)は,禅僧夢窓疎石(むそうそせき)を名目上の開山として招き,義満の法号鹿苑寺殿を寺号にとって,北山殿の舎利殿(金閣)を中心に禅寺としました。

 その後も歴代の足利将軍は護持に尽力し,しばしば参詣を行っています。この頃には舎利殿(金閣)の他,仏殿・不動堂・泉殿などがあったようですが,応仁・文明の乱(1467〜77)が起こると当寺は西軍の陣所となり,金閣を除く多くの殿舎が焼失して荒廃を余儀なくされました。

近世以降の金閣寺
夕佳亭起し絵図
嘉永6年(1853)作成。中井家蔵

 しかしその後,江戸時代末までに,金閣寺は住持僧などの努力によって不動堂・茶室夕佳亭(せっかてい)・方丈・大書院・小書院・鐘楼・鎮守・庫裏(くり)・唐門などが再建・建立され,現在,私達が見ることのできる堂舎群が整えられました。

 江戸初期の鹿苑寺住持鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が記した『隔記』(かくめいき)は,この頃の寺内のみならず文化のありさまなども知ることのできる貴重な史料で,寛永12年(1635)8月から寛文8(1668)年6月までの記事が現存しています。

 明治のはじめ,夕佳亭とその裏にあった拱北楼(義満が政務を執ったと伝える建物)が焼失しましたが,後に再建されました。「大工頭中井家文書」の中には,江戸時代中・後期の夕佳亭の起し絵図が残されています。起し絵図とは,設計図を切り抜いて組み立てた立体的な建築図面です。

 金閣は明治36(1903)年から解体修理が行われ,後には国宝にも指定されましたが,昭和25年,放火によって焼失してしまいます。金閣の放火焼失事件は三島由紀夫の『金閣寺』(昭和31年),水上勉の『金閣炎上』(昭和54年)といった小説の題材としても取り上げられました。しかしその後,同30年には復元・再建され,これが現在の金閣になります。

 ちなみに現在,当寺の周辺地域には大北山不動山町・衣笠馬場町・衣笠西馬場町・衣笠総門町・衣笠東御所ノ内町・衣笠御所ノ内町・衣笠西御所ノ内町といった名を持つ町があります。創建当初の北山殿は,東は紙屋川,北は衣笠山,南は現在の衣笠総門町周辺を境界としていたといわれ,現在の町の名やその範囲からも,かつての寺域の規模を窺うことができます。

 金閣寺(鹿苑寺)周辺地図。黒線は,現在の大北山不動山町・衣笠馬場町・衣笠西馬場町・衣笠総門町・衣笠東御所ノ内町・衣笠御所ノ内町・衣笠西御所ノ内町の範囲を示したものです。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。

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金閣
金銅鳳凰(鹿苑寺蔵)
 

 足利義満が北山殿に建てた三層楼閣の舎利殿で,寺の中心にある鏡湖池(きょうこち)の畔にあります。屋根はこけら葺きで,二層・三層部分は漆の上に金箔が貼られ,屋根には鳳凰(ほうおう)が飾られています。

 応永5(1398)年の創建当初,この建物は舎利殿・重々殿閣・三重殿閣などと呼ばれていましたが,文明16(1484)年,はじめて「金閣」の名が見えるようになります。

 一層は法水院(ほうすいいん,鏡堂)と呼ばれ,西側には船着場と池に突き出した漱清(そうせい,釣殿<つりどの>)を持つ寝殿造の阿弥陀堂です。また二層は潮音洞(ちょうおんどう)と呼ばれる書院造の観音堂,さらに三層は究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれる禅宗様(唐様)の仏間,という形式を持ち,住宅と仏堂の様式を併用・統合した建物になっています。創建当初,二層には足利義満筆の「潮音洞」,三層には後小松天皇筆の「究竟頂」の額がかけられました。

 この金閣は,北山殿創建以来から残っていた唯一の建物でしたが,昭和25年7月2日に焼失してしまい,同30年に再建されました。その後,同62年秋にも漆や金箔が修理され,現在では創建当初を想起させる,まばゆいばかりの装いに一新されました。平成15年春にも,金箔のはり替えなどが行われています。

 鳳凰と後小松天皇筆「究竟頂」の額については,昭和25年の焼失時には金閣から取り外され保存されていたため,難を免れました。このうち鳳凰は,平成11年,京都市指定文化財になっています。

 金閣寺は現在,京都における修学旅行・旅行客の観光スポットとして清水寺とともに双璧をなしています。また平成6年には,世界文化遺産にも登録されました。

庭園

 義満が西園寺北山第から受け継いだ景観をもとに,鏡湖池(きょうこち)を中心としてさらに大きく改造した庭園です。室町時代を代表する池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の庭園として,国の特別史跡・特別名勝に指定されています。

 西と北を山に囲まれて,鏡湖池には葦原島(あしわらじま)といわれる中島や幾つもの岩島があり,これらの岩には畠山石・細川石と創建時に奉納した諸大名の名が付けられています。

また,池の東に建つ方丈の北側には「陸舟の松」と呼ばれる舟形の大変立派な松があり,義満の手植えの松といわれています。

安民沢
安民沢(あんみんたく)

 金閣の建つ鏡湖池の背後の一段高い山腹にある池で,その中央には西園寺家の鎮守といわれる石塔「白蛇の塚」があります。

 また池裾には,義満がお茶の水に用いたと伝えられる「銀河泉」(ぎんがせん),義満が手を清めたという「巌下水」(がんかすい),中国の故事登龍門にちなんだ「鯉魚石」(りぎょせき)が置かれた「龍門滝」(りゅうもんのたき)の3つが並んで設けられ,今なお清水をたたえています。この安民沢と龍門滝は,鎌倉時代の西園寺北山第の池泉の遺跡をとどめているといわれています。

夕佳亭(せっかてい)

 江戸時代,後水尾天皇(ごみずのおてんのう)を迎えるために鳳林承章が茶人金森宗和(かなもりそうわ,1584〜1656)につくらせた数寄屋造の茶室で,「夕」日にはえる金閣が「佳」いという意味から「夕佳亭」と名付けられました。明治のはじめに焼失し,現在の建物は明治27(1894)年に再建されたものです。

 茶室の南天の床柱や萩の違棚が有名で,亭の前にある石燈籠と富士形の手水鉢は,室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ,1436〜90)が愛用したものと伝えられています。

不動堂
不動堂(ふどうどう)

 現在の不動堂は,天正年間(1573〜1592),安土桃山時代の大名で豊臣秀吉の重臣であった宇喜多秀家(うきたひでいえ,1572〜1655)が再建したとされ,金閣寺の境内に現存する最も古い建物です。

 本尊の石造不動明王は鎌倉時代のものといわれ,室町時代には信仰の対象として多くの人々が参詣に訪れたようです。現在は秘仏ですが,2月の節分と,大文字の送り火が行われる8月16日には開扉法要(かいひほうよう)が営まれています。

金閣寺境内図

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