西陣織
文化史12

にしじんおり
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西陣の由来

西陣中心部に位置する元西陣織物館(現京都市考古資料館)
 西陣織とは京都西陣の地で生産される織物の総称です。西陣という地名は,応仁・文明の乱(1467〜77)の西軍,山名宗全(やまなそうぜん,持豊,1404〜73)の陣所に由来し,彼の邸宅があった山名町(堀川通今出川上る西入)とともに,乱の名残をとどめている数少ない地名です。

 地名としての初見は『蔭凉軒日録』(いんりょうけんにちろく)文明19(1487)年正月24日条で,乱後10年で西陣が地名化していたことがわかります。江戸時代には,北は今宮神社御旅所,南は一条通あるいは中立売通,東は堀川通,西は七本松通にわたる一帯を西陣と呼んでいました。

 ただ現在,西陣警察署や西陣郵便局,西陣中央小学校など「西陣」の名を冠する施設はいくつかありますが,西陣という行政地名はありません。また,今では西陣織関連の業者は,北は鷹峯(たかがみね),南は丸太町通,東は烏丸通,西は御室附近にまで広がっています。

西陣織のはじまり

 平安初期の律令制のもとでは,大蔵省に属した織部司(おりべのつかさ)が最高級の織物を生産していました。しかし,律令体制の崩壊にともなって,平安末期あたりから朝廷は工房を維持することが難しくなっていきました。

 そこで織工達は大舎人町(おおとねりちょう,現在の猪熊通下長者町附近)に移り住み,宋の綾織技法を模倣した唐綾を,貴族の装飾用に製作しました。これが,民業による製織のはじまりです。南北朝期に成立した『庭訓往来』(ていきんおうらい)からは,「大舎人綾」や「大宮絹」が京の名産として有名であったことがわかります。

 応仁・文明の乱の間,大舎人町の織工達は,堺などに逃れていました。乱が終結すると京都に戻り,東軍本陣跡の白雲村(現在の新町通今出川上る附近)では練貫座(ねりぬきざ)が,西軍本陣跡の大宮あたりでは大舎人座が組織されました。そしてそれぞれが対立しながらも,京の機業をリードしていきました。

 16世紀になると,大舎人座が将軍家直属の織物所に指定され,また元亀2(1571)年には,大舎人座31家のうち6家が,宮廷装束を製織する御寮織物司(ごりょうおりものつかさ)に任じられました。これ以降,この6家を中心として西陣の機業は発展していきました。

西陣織の黄金時代
右は錦織,左はビロードを織るようす。『都名所図会』巻一

 安土・桃山時代には,堺を経て明の技術が輸入されたことから新しい織物が発案され,高級精妙な西陣織の基礎が築かれました。

 江戸時代に入ってからは,幕府の保護のもと西陣の黄金時代を迎えました。特に西陣の中心だった大宮通今出川交叉点附近は,千両ヶ辻と呼ばれていました。毎日のように下京の糸商人がやってきて,千両を超える糸取引が行われていたことから,この名が付けられたといいます。

 またいわゆる「京の着倒れ」(きだおれ)という言葉も江戸時代に登場します。十返舎一九(じっぺんしゃいっく,1765〜1831)の『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)に

  商人のよき衣きたるは他国と異にして,京の着だをれの 名は益々西陣の織元より出

とあり,京の人々の衣服への関心の高さとともに,西陣を中心にした京織物の名声がうかがえます。

西陣織の危機

 享保15(1730)年6月20日,上立売通室町西入の呉服所(ごふくどころ)大文字屋五兵衛方から火の手が上がり,またたく間に西陣地区の大部分を焼き尽くしました。この火事は「西陣焼け」と呼ばれ,民家約3800軒,織機約7000台のうち3000台以上が焼失したといわれています。

 これをきっかけに,徐々に西陣の機業は衰退していきます。この頃,丹後・長浜・桐生(きりゅう)・足利など京都以外の地域で絹織物が盛んになり,火事の後には西陣の技術が織工とともに地方へ伝わっていきました。さらにその後の天明8(1788)年の大火や,天保の改革による株仲間の解散・絹織物禁止令で,西陣は大きな打撃を受けました。

西陣織の近代化
ジャカード

 明治2(1869)年の東京遷都によって,西陣は高級織物の需要者層を大幅に失いました。また生糸の輸出増加にともない国内生糸の価格も高騰し,西陣は以前にもました危機を迎えました。

 そこで,京都府による保護育成が計られることになり,府は明治2(1869)年に西陣物産会社を設立しました。同5年には佐倉常七(さくらつねしち)・井上伊兵衛(いのうえいへえ)・吉田忠七(よしだちゅうしち)をフランスのリヨンに留学させ,フランス式のジャカード(紋紙を使う紋織装置)やバッタン(飛杼<とびひ>装置)など数十種の織機装置を輸入しました。また,明治6(1873)年,ウイーン万国博覧会に随行した織物業者の四世伊達弥助(だてやすけ,1813〜76)は,オーストリア式のジャカードを持ち帰りました。

 明治20年代にはこうした洋式技術も定着し,西陣は最新にして最大の絹織物産地となっていきます。その後も川島甚兵衛(かわしまじんべえ)や佐々木清七(ささきせいしち)らが各地の博覧会に出品受賞し,西陣織の名を高めました。

 明治末には織機約2万台を有し,生産額は2000万円あまりで,全国織物総生産額の約7パーセントを占めるようになりました。こうして西陣は新しい技術を取り入れることにより,幕末から維新にかけての危機を脱出しました。

現代の西陣

 西陣は第2次大戦後,機械化がさらに進み,新しい技術が次々に導入されました。現在では,技術の高度化とともに作業工程は細かく分業化され,そのほとんどの工程を中小企業がになっています。

 一方で,労働力を求めていわゆる「出機」(でばた,下請け工場)の地区外化が進み,例えば西陣帯の約6割が京都市外で織られています。また最近では高級な着物や帯だけではなく,ネクタイやバッグ,カーテンやお守りの袋など多様な織物も製造されるようになりました。社会の変容に対応した変化が,西陣織にも求められています。

 昭和51年には綴織(つづれおり)・錦織(にしきおり)・緞子(どんす)・朱珍(しゅちん)・紹巴(しょうは)・風通(ふうつう)・綟り織(もじりおり)・本しぼ織・天鵞絨(ビロード)・絣(かすり)・紬(つむぎ)の11種が,国から伝統的工芸品に指定されました。

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西陣織会館(にしじんおりかいかん) 上京区堀川通今出川下る西側
西陣織会館

 西陣織会館は,西陣織工業組合により西陣五百年記念事業のひとつとして,昭和51年に竣工しました。前身は大正4(1915)年,今出川通大宮東入に建設された西陣織物館です(現京都市考古資料館)。

 西陣織の工程や織物製品の展示,綴織(つづれおり)の実演のほか,ホールでは新製品の紹介と宣伝をかねた着物ショーが行われています。入口横には,西陣碑の複製があります。

西陣碑 上京区今出川通大宮東入北側
西陣碑

 京都市考古資料館(元西陣織物館)の玄関脇,向かって右側に高さ約3メートルの碑があります。上半分に「西陣」の2文字,下半分に碑文が刻まれています。織物商三宅安兵衛(みやけやすべえ)の遺志によって昭和3(1928)年に立てられました。

 「西陣」の文字は,京都帝国大学総長荒木寅三郎(あらきとらさぶろう)が揮毫し,碑文は京都帝国大学教授三浦周行(みうらひろゆき)が執筆したもので,西陣のいわれが記されています。

西陣名技碑 上京区北町(北野天満宮北門外)
西陣名技碑

 北野天満宮の北門外にある2基の石碑のうち,東側にある高さ約5メートルの石碑。西陣織の技術改良に貢献し,伊達錆織という独自の織物を作り出した五世伊達弥助(だてやすけ,1838〜92)の業績を顕彰したものです。明治28(1895)年頃に立てられました。京都府知事北垣国道(きたがきくにみち)が碑文を書き,漢学者巖本範治(いわもとはんじ)が揮毫したものです。

 その西側には,京都の養蚕の普及に努めた松永伍作(まつながごさく)の業績を顕彰した松永君紀功碑(まつながくんきこうひ,継往開来碑<けいおうかいらいひ>)が立っています。

京都伝統産業ふれあい館 左京区岡崎成勝寺町
(京都市勧業館「みやこめっせ」地下一階)

 京都伝統産業ふれあい館は,平成8年に開館した京都市勧業館「みやこめっせ」の地下1階に併設されています。西陣織を含む約450点の伝統工芸品が常設展示され,他にもビデオコーナー,情報検索コーナーや図書室などがあります。入館は無料です。

織成館(おりなすかん) 上京区浄福寺通上立売上る

 帯製造業「渡文」(わたぶん)初代の住まいであった建物は,西陣の町家の雰囲気をよく残しています。西陣手織技術の振興のため,平成元年に設立されました。能衣装や各地の伝統織物の展示のほかに西陣織製造の見学,手織の体験などができます。(手織体験は要予約)

西陣くらしの美術館 冨田屋 上京区大宮通一条上る

 現役の呉服屋である冨田屋は,建物を文化教室や展示会などに広く開放しています。また申し込むと,着物体験やお茶席体験もできます。西陣の町家特有の形式を残す建物は,平成11年に国の登録有形文化財になりました。

西陣織工芸美術館 松翠閣(しょうすいかく) 上京区寺之内通智恵光院東入

 松翠閣は昭和初期にできた町家を利用した美術館です。館内では,尾形光琳(おがたこうりん)・円山応挙(まるやまおうきょ)・ルノワール・ゴッホなどの作品を西陣織の高度な技術で再現し,展示してあります。

 西陣附近現況。太線で示したあたりが江戸時代の西陣の範囲。中央右よりの○印附近が千両ヶ辻。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載

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