石門心学
文化史19

せきもんしんがく
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石門心学とは

 石門心学とは江戸時代に石田梅岩(いしだばいがん,1685〜1744)が創始した庶民のための生活哲学です。石門とは,石田梅岩の門流という意味です。陽明学を心学と呼ぶこともあり,それと区別するため,石門の文字を付けました。梅岩は,儒教・仏教・神道に基づいた道徳を,独自の形で,そして町人にもわかりやすく日常に実践できる形で説きました。そのため,「町人の哲学」とも呼ばれています。

石門心学の思想

 17世紀末になると,商業の発展とともに都市部の商人は,経済的に確固たる地位を築き上げるようになります。しかし,江戸幕府による儒教思想の浸透にともない,商人はその道徳的規範を失いかけていました。農民が社会の基盤とみなされていたのに対して,商人は何も生産せず,売り買いだけで労せずして利益を得ると蔑視されていたからです。

 梅岩が独自の学問・思想を創造したのも,そうした商人の精神的苦境を救うためでした。彼は,士農工商という現実社会の秩序を肯定し,それを人間の上下ではなく単なる職業区分ととらえるなど,儒教思想を取り込むような形で庶民に説いていきました。倹約や正直,堪忍といった主な梅岩の教えも,それまでの儒教倫理をベースとしたものでした。また,商人にとっての利潤を,武士の俸禄と同じように正当なものと認め,商人蔑視の風潮を否定しました。

 これらの新しさとわかりやすさを兼ね備えた梅岩の思想は,新しい道徳観を求める町人の心を次第にとらえていきました。

 石門心学はその後組織化が進み,18世紀末には全国に普及していきました。ただ梅岩の死後は,思想的・学問的意義を失い,民衆のための教化哲学や社会運動という意味を徐々に深めていきます。

石田梅岩(いしだばいがん)
石田梅岩肖像

 石田梅岩は貞享2(1685)年,丹波国桑田郡東懸村(とうげむら,現在の亀岡市東別院町東掛<とうげ>)の農家に生まれました。「梅岩」は号で,本名は興長,通称は勘平です。

 次男であったため,京都に出て上京の呉服商黒柳家に約20年間奉公しました。その間に,市井の隠者小栗了雲(おぐりりょううん)と出会い,思想を深めていきます。梅岩は正式な学問を修めたわけではありませんが,奉公の経験と了雲との出会いが,経済と道徳の融合という独特の思想を生み出す基礎となったと思われます。

 梅岩は享保14(1729)年,車屋町通御池上る東側の自宅で講義を始めました。そこで彼は聴講料を一切取らず,また紹介者も必要としない誰でも自由に聴講できるスタイルをとりました。初めのうちは聴衆も数人という状況でしたが,出張講釈などを続けることで次第に評判は高まっていきました。

 また講義とは別に,毎月3回月次会(つきなみえ)と呼ばれる研究会を開き,その中で多数の門弟を育てました。その月次会での問答を整理したものが,元文4(1739)年に出版された『都鄙問答』(とひもんどう)です。田舎から京都へ出てきた者の質問に,梅岩が答える形式をとっており,教学の基本理念が記されています。

 延享元(1744)年には彼の主張の中核である「倹約」を説いた『斉家論』(せいかろん)を出版しますが,その直後に亡くなりました。なお梅岩自身は,一度も「心学」という言葉は用いていません。

手島堵庵(てじまとあん)
前訓聴聞の図。男子と女子では席が別々ですが,同じ講師からいっしょに講釈を聞きました。

 梅岩亡き後,石門心学の中心的存在となったのが手島堵庵(1718〜86)です。堵庵は京都の商家に生まれ,18才で梅岩の門に入ります。44才の時に家督をその子和庵(かあん)に譲り,以降は心学の普及につとめました。

 梅岩を,真理を求める求道者的存在とするならば,堵庵は庶民を教え導く指導者的存在でした。そして,組織の改革や教化方法の改善に手腕を発揮しました。

 明和2(1765)年には富小路通三条下るに,最初の心学講舎である五楽舎(ごらくしゃ)を設立しました。さらに安永2(1773)年,五条通東洞院東入に脩正舎(しゅうせいしゃ)を,安永8(1779)年,今出川通千本東入に時習舎(じしゅうしゃ)を,天明2(1782)年,河原町通三条に明倫舎(めいりんしゃ)をそれぞれ開設しました。これらの講舎は,その後組織化していく心学教化活動の中心的存在となっていきました。

 また,女性だけの特別講座や,年少者のために日中行う「前訓」(ぜんくん)という講座を開きました。そこでは俗語を用いた講話や,心学の教訓を歌であらわした道歌が用いられ,庶民に広く受け入れられました。

 その結果,民衆に広く受け入れられた心学は,天明・享和(1781〜1804)の頃には,京都を中心に社会的一大勢力に発展しました。その背景には,都市部における寺子屋の定着によって,教育の必要性が庶民に浸透したことが挙げられるでしょう。ただ一方で,梅岩の思想の哲学的側面は薄れ,その教えは平易で単純なものになっていきました。

柴田鳩翁(しばたきゅうおう)

 もとは講談師であった柴田鳩翁(1783〜1839)は,文政4(1821)年時習舎の薩徳軒(さったとくけん)に入門し,心学を修めました。鳩翁は45才の時に失明しますが,たくみな話術で庶民から武家・公家にまで心学を説いてまわりました。

 特にこの頃になると,心学も一般に浸透したため,大名や代官に依頼され各地を巡回することが多くなりました。越前大野,美作(みまさか)津山,伊勢津などの諸藩では,藩主自らが彼の講釈に耳を傾けました。他にも,京都所司代の松平信順(まつだいらのぶのり)や仁和寺宮(にんなじのみや)済仁入道親王(さいにゅうにゅうどうしんのう),土御門晴親(つちみかどはれちか)などが鳩翁の講釈を聞いています。

 それらの場で語られた話を,養子である遊翁がまとめたものが『鳩翁道話』です。天保6(1835)年に出版され,明治時代にはベストセラーにもなりました。

 また彼は実践を重んじ,自ら復興した脩正舎を中心に飢饉時の救援活動を推し進めました。天保の大飢饉の折には,長期にわたり施粥を行い,彼の没した翌年の天保11(1840)年には町奉行所より表彰されています。

京都の富商と心学

 大黒屋三郎兵衛家は越後屋(三井家)や大丸(下村家)とともに,江戸時代,京都有数の呉服屋でした。その第四代当主杉浦利喬(1732〜1809)は石田梅岩の門に入り,心学を修めました。利喬は店の者に,『家内之定』や『家業之定』とともに『石田梅岩語録』を読み聞かせていたことからも,心学の思想を経営の理念に取り入れていたことがうかがえます。またその『家内之定』にも,

  家業専に仕,常に倹約を守るべき事

などとあり,明らかに心学の影響が見て取れます。

 文化6(1809)年に利喬は亡くなりますが,以降も心学は大黒屋の家訓として受け継がれていきました。現在,杉浦家には石田梅岩の肖像画が残されています。

大黒屋以外にも,心学に傾倒した商家は多く,講舎の運営資金の大半は,そうした商人達によって賄われていたようです。

 また,心学の説く倹約や正直,堪忍(かんにん)などの思想は,さまざまな形で老舗の家訓の中に残され,今に続いています。

小学校と心学

明治2(1869)年に日本で最初に発足した京都の小学校では,住民を対象とした社会教育として,儒書の講釈とともに心学の講義が行われていました。小学校には心学の道話師が置かれ,月に6回の講義の席が設けられていました。これは,江戸時代に心学が果たした役割が,明治に入ってもある程度評価されていたからだと思われます。ただ文明開化の流れには対応できず,この制度も明治4(1871)年には廃止されます。

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石田梅巌(いしだばいがん)邸跡 中京区堺町通蛸薬師上る東側
石田梅巌邸跡

 梅岩は,車屋町通御池上るの自宅が手狭になってきたため,元文2(1737)年,堺町通蛸薬師上るに移ります。この地は現在駐車場になっていますが,北西角に邸宅の跡を示す石標が立っています。なお,石標には「梅巌」とありますが,本人は常に「梅岩」と「岩」の字を使っていたようです。

石門心学脩正舎(しゅうせいしゃ)跡 下京区麩屋町通五条上る東側
石門心学脩正舎跡

 手島堵庵によって開かれた脩正舎は,もともと五条通東洞院東入の地にありましたが,天明の大火(1788)などにより焼失してしまいました。

 その後,文政10(1827)年に柴田鳩翁が創建地に復興し,孫の謙堂が明治44(1911)年に麩屋町通五条上るの地に移しました。脩正舎は,明倫舎や時習舎とともに心学講舎の総本山的存在でした。昭和40年代までは月1回の講話も行われていましたが,現在は石標のみとなっています。

明倫舎(めいりんしゃ)跡 中京区室町通錦小路上る(現京都芸術センター)
明倫舎扁額。手島堵庵の筆といわれています。

 河原町通三条に開設された明倫舎は,やはり天明の大火により焼失します。後に錦小路室町上るの地に再建され,京都のみならず全国の心学教化活動の拠点になっていきました。

 その後,明治2(1869)年に土地・建物が下京三番組小学校(のちの明倫小学校)に転用され,明倫舎は新町二条上るに移りました。平成5年に,明倫小学校は附近の小学校との統合により閉校となりましたが,現在では,若い芸術家を支援する施設である京都芸術センターとなっています。

石田梅岩の墓 東山区五条橋東六丁目 (旧延年寺墓地)
石田勘平之墓

 鳥辺山には心学関係者の墓碑が多くあり,梅岩以外にも手島堵庵や中沢道二(なかざわどうに),柴田鳩翁らの墓もあります。「勘平」は梅岩の通称です。

ガレリアかめおか 亀岡市余部町

 「ガレリアかめおか」は,平成10年にオープンした複合型生涯学習施設です。亀岡出身の梅岩にちなんで,その心学講舎を復元し,また石門心学に関する公開講座も開催しています。JR亀岡駅より徒歩20分・コミュニティバス西コース「ガレリアかめおか」下車・京都交通バス「農協前」下車。


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