京都の出版
文化史23

きょうとのしゅっぱん
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京都の出版のはじまり

 京都では平安時代より仏教の経典類が印刷されています。東山の知恩院を中心に浄土教関係の出版(浄土教版)が行われ,京都五山の禅僧によってはじめられた五山版では禅籍のみならず詩文集や漢籍も刊行されました。

 戦国末期には,キリスト教宣教師が教書などを刊行するために用いたキリシタン版が出版され,さらに文禄2(1593)年に後陽成天皇勅版の『古文孝経』(こぶんこうきょう)が刊行されるに及んで,日本出版史は一つの画期を迎えます。

 当時の印刷方法は,版木に直接文字や図形を彫刻して印刷した整版と,一字ずつ活字を組んで版を作る活字版がありました。活字版には銅製の活字を使った銅活字版と,慶長勅版などで見られるような木製の活字を使用した木活字版があります。

慶長勅版『日本書紀神代巻』(陽明文庫蔵)
古活字版(こかつじばん)

 安土桃山時代末期から江戸初期にかけて出版された活字印本は古活字版と呼ばれており,次のようなものがあります。

 キリシタン版 天正19(1591)年から慶長16(1611)年にかけて刊行され,『平家物語』など現在29種が知られています。京都で出版されたのは,慶長15年4月に原田アントニオが印刷した仮名まじり文の宗教書『こんてむつす・むん地』の一種のみです。

 慶長勅版(けいちょうちょくはん) 慶長2(1597)年から同8(1603)年にかけて,後陽成天皇の命により,大型の木製活字を用いた勅版が印刷され,『錦繍段』(きんしゅうだん)『日本書紀神代巻』(にほんしょきかみよのまき)『論語』『孟子』などを出版しました。

 伏見版(ふしみばん) 円光寺版(えんこうじばん)とも呼ばれ,閑室元佶(かんしつげんきつ,1548〜1612)が,伏見の円光寺(現左京区一乗寺小谷町)で,慶長4(1599)年に徳川家康が寄附した木活字10万字を使用し,『孔子家語』(こうしけご)『三略』(さんりゃく)『六韜』(りくとう)『貞観政要』(じょうがんせいよう)『周易』(しゅうえき)などの書物を印刷しました。

 嵯峨本(さがぼん) 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ,1558〜1637)が角倉素庵(すみのくらそあん,1571〜1632)の協力を得て平仮名交りの国書を木活字で出版しました。角倉本・光悦本とも呼ばれたこの書籍は,装丁の美しさが特徴で,表紙・本紙には雲母紙を使っています。慶長13(1608)年刊の『伊勢物語』(10種)をはじめとし,『方丈記』『百人一首』『徒然草』『源氏物語』などを出版しました。

出版書林の出現

 慶長年間(1596〜1615)には,本を出版し店頭で販売する本屋(書林)が現れます。本屋の出現は本の需要を増加させる結果となり,大量生産するために印刷方法も活字版から整版へと変化します。

 元禄年間(1688〜1704)に入ると多くの本屋が出揃い,林九兵衛(はやしきゅうべえ,儒書),村上勘兵衛(むらかみかんべえ,仏書),風月庄左衛門(ふうげつしょうざえもん,儒書・医書),秋田屋平左衛門(あきたやへいざえもん,仏書・医書)などが代表的な本屋として挙げられ,この他にも,出雲寺和泉掾(いずもじいずみのじょう,歌書),永田調兵衛(ながたちょうべえ,仏書),西村九郎右衛門(にしむらくろうえもん,仏書),佐々木惣四郎(ささきそうしろう,和学書)などがありました。

 本屋の多い町筋は寺町・二条・五条橋(五条)の各通りで,この分布は当時の需要者と関係があり,二条通近辺には武家や公家が多いため古典や歌書が,寺町通や五条通には寺院が多いため仏教関係の本屋が並びました。

また,本屋の出現にともなって江戸中期には出版に関連する板木職・板摺工なども書店のまわりに集住しはじめます。

書林仲間

 寛永年間(1624〜44)以降,本屋における出版が活発になりはじめると,売れ行きが良好な本を他の店がまねて印刷するという重版や類版の問題が起き,紛争の種となりました。この紛争を本屋の間で自主的に処理するために,出版業者の組合である京都書林仲間が元禄期に成立し,やがて町奉行によって享保元(1716)年に公認されます。

 書林仲間は出版・販売者の加入が義務づけられていて,仲間中より2名が「行事」という役員に選出されました。行事は,4カ月交替制で正・5・9月に交替し,町奉行所への出版の許可,新刊書の重版・類版の処理,大坂・江戸の書林仲間との連絡などの事務に従事していました。

草紙屋(そうしや)

 出版書林の成立にともなって,小説や浄瑠璃本・絵本・絵図・啓蒙教訓書,また,諸技芸の教本などの「草紙」と呼ばれる図書の類を取り扱う草紙屋というものも出現しました。

 貞享2(1685)年刊の『京羽二重』(きょうはぶたえ)には「歌書所并絵草紙」の店として,林白水(はやしはくすい,出雲寺),喜左衛門(きざえもん),与菱屋(よびしや)の三軒を挙げています。林白水は,二代目出雲寺和泉掾を相承した時元(ときもと)のことで,この出雲寺家は,儒者林羅山(はやしらざん,1583〜1657)の遠縁にあたり,禁裏御用や『武鑑』出版など幕府御用もつとめました。

 元禄期では,山本九兵衛(やまもときゅうべえ),鶴屋喜右衛門(つるやきえもん),八文字屋八左衛門(はちもんじやはちざえもん)が知られ,その中でも浄瑠璃本の販売書店として寛永期から幕末まで開業した鶴屋喜右衛門は,近松門左衛門作『心中天の網島』(しんじゅうてんのあみじま)『傾城反魂香』(けいせいはんごうこう)などを出版し,大坂で出版された浄瑠璃本(『曽根崎心中』<そねざきしんじゅう>『鑓の権三重帷子』<やりのごんざかさねかたびら>など)の京都販売元となりました。

 なお,草紙屋も「草紙屋中」という仲間を組織しましたが,京都では仲間として認められず,書林仲間の監督下におかれ,草紙の出版には書林仲間行事の許可が必要でした。

浮世草子と八文字屋本(はちもんじやぼん)

 元禄時代になると,大坂の町人であった井原西鶴(いはらさいかく,1642〜93)の『好色一代男』(こうしょくいちだいおとこ)に代表されるような浮世草子(小説)が需要者の間で流行し,京都でも西村市郎右衛門(にしむらいちろうえもん,嘯松子)や林義端(はやしぎたん)などの戯作者が登場します。

 この頃,京都の浮世草子作家は本屋の主人や雑俳点者などで主として構成されていましたが,西鶴に対抗するだけの力量手腕のある作者は一人としておらず,浮世草子出版に関して,京都の本屋は西鶴著作を出版していた大坂の本屋の後塵を拝する状態でした。

 しかし,元禄期の後半に江島其磧(えじまきせき,1666〜1735)が登場すると京坂書林界の趨勢は大きく変動します。

 元禄14(1701)年に其磧著の『傾城色三味線』(けいせいいろじゃみせん)という浮世草子が京都の草紙屋八文字屋八左衛門(はちもんじやはちざえもん)から発刊されると,瞬く間に大ベストセラーとなり,出版に成功した八文字屋から刊行される書籍は八文字屋本と呼ばれ,江戸中期の日本の出版界を風靡しました。

案内書の刊行

 京都の出版物の中でも特に有名なものに名所案内記(ガイドブック)の類があります。明暦4(1658)年に書林山森六兵衛(やまもりろくべえ)より刊行された『京童』(きょうわらべ)を皮切りに貞享2(1685)年に刊行された『京羽二重』(きょうはぶたえ)などたくさんの案内書が出版されました。中でも京都の商人吉野屋為八(よしのやためはち)が安永9(1780)年に刊行した観光案内書『都名所図会』(みやこめいしょずえ)は空前の売行きを見せ,その後,各地の名所図会が刊行されることとなりました。

京絵図の出版
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「改正京町御絵図細見大成」

 江戸時代の初期には,京都の市街地を克明に描いた京絵図(地図)も盛んに印刷されました。その中でも寛永元(1624)年前後に刊行された「都記」(みやこのき)は,現在知られる最古の京絵図です。

 また,庶民の中で観光が流行しはじめ,種々のガイドブックが発行されると,それにともない名所の手引きや案内を書添えた観光マップが次々と出版されました。その中でも天保2(1831)年に竹原好兵衛(たけはらこうべえ)から刊行された「改正京町御絵図細見大成」(かいせいきょうまちおんえずさいけんたいせい)は,縦(南北)1.8メートルと刊行京絵図の中では最も大きく,細かい通り名から町名まで鮮明に印刷されており,今でもよく見かける京絵図の代表的なものです。

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円光寺(えんこうじ) 左京区一乗寺小谷町

 臨済宗南禅寺派の寺院で,瑞巌山と号し,本尊は千手観音です。

 慶長6(1601)年,経世・治国の学問を好んだ徳川家康(1542〜1616)が足利学校(栃木県足利市)の第九世庠主(しょうしゅ,校長)であった閑室元佶(かんしつげんきつ,1548〜1612)を招き,足利学校の京都分校として伏見城下に創建しました。

 当寺は国内教学の拠点として多くの朝鮮文書や木製活字を所蔵し,伏見版(円光寺版)と呼ばれる図書を出版しました。のちに上京区の相国寺山内へ移転し,寛文7(1667)年,現在地に移って南禅寺の末寺となりました。現在でも家康より寄せられた木活字(重要文化財)を所蔵しています。

永田調兵衛(ながたちょうべえ) 下京区花屋町通西洞院(永田文昌堂<ながたぶんしょうどう>)

 慶長年間(1596〜1615)創業,屋号は丁字屋・菱屋と言い,京都において今日まで出版を続ける最古の本屋です。現存する同店最古の刊本として寛永6(1629)年出版の外山竹隠著『医教指南』(いきょうしなん)があります。

 初代から三代目までは長兵衛,四代目より十代目まで調兵衛を襲名,最初は錦小路通新町西入に店舗を構えましたが,天明8(1788)年の大火後,現在地に移りました。諸種の図書を広く出版し,書籍目録の刊行でも知られています。

 店舗移転以後は,西本願寺蔵版のものなど一向宗関係書をも出版しており,現在では永田文昌堂と称して各宗経典の出版と販売を行っています。

佐々木惣四郎(ささきそうしろう) 中京区寺町通姉小路上る西側(竹苞楼<ちくほうろう>)

 宝暦元(1751)年,姉小路通寺町西入北側に創業。屋号を銭屋,店号を竹苞楼と号し,初代春重は『茶経』などを出版,二代の春行は伴蒿蹊(ばんこうけい)・高芙蓉(こうふよう)・上田秋成(うえだあきなり)などの文人と親交を結び,国学や漢学の書籍を多数出版しました。その中でも『近世畸人伝』(きんせいきじんでん)は,今日でも多くの人々に愛読されています。

 天明の大火で類焼し,享和元(1801)年に現在地に移転,五代目春吉の代(明治中頃)から出版業をやめて販売のみとなり,現在では古書を扱っています。

 竹苞楼の建物は,元治元(1864)年の蛤御門の変で被災した直後に再建されたものを使用しており,幕末期の典型的な町家遺構を現代に残す貴重な建物となっています。

村上勘兵衛(むらかみかんべえ) 中京区東洞院通三条上る(平楽寺書店<へいらくじしょてん>)

 村上浄徳(むらかみじょうとく)が慶長年間に創業。当初は鞍馬口に店舗を構えますが,その後,二条通玉屋町や二条通車屋町角へと移転,文化年間(1804〜18)に現在地に移りました。

 二代浄清は俳書『はなひ草』などを出版,四代目の元信の時,深草に住んだ法華僧元政と親しくなり,日蓮宗の図書を出版します。寛文9(1669)年には武村市兵衛(たけむらいちべえ)・秋田屋平左衛門(あきたやへいざえもん)・八尾甚四郎(やおじんしろう)と組んで法華宗門書堂を開き,日蓮宗書・天台学書など100点超える書物を出版,寛保元(1741)年からは単独で法華宗門書を発行するようになります。

 日蓮宗関係以外にも医書や儒書など幅広く出版し,明治元(1868)年には新政府の御用書林となって『太政官日誌』(一種の官報)の発行に携わりました。現在では平楽寺書店の名前で業務を行っています。

八文字屋自笑(はちもんじやじしょう)翁邸跡 中京区麩屋町通六角下る西側

 江戸中期の浮世草子出版者である八文字屋自笑(?〜1745)は,最初,説教本や浄瑠璃本を出版していましたが,元禄14(1701)年,江島其磧(えじまきせき)作の浮世草子『傾城色三味線』(けいせいいろじゃみせん)を刊行し,八文字屋本と総称される分野を開拓しました。その邸宅の跡には石標が建てられています。

 草紙屋八文字屋は江戸中期最大の浮世草子出版店で,体裁・字体等にも工夫を施し,其磧の後は,和学者多田南嶺(ただなんれい)などに執筆を依頼,挿絵画家には京都で著名な浮世絵師だった西川祐信(にしかわすけのぶ)を起用しました。自笑以後は其笑―瑞笑―素玉と続きましたが,素玉の代になって所有の浮世草子板木を大坂の升屋大蔵に売却しました。


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