京都の映画産業
文化史24

きょうとのえいがさんぎょう
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京都の映画産業

 日本の映画産業が本格的となるのは,日本活動写真株式会社(日活)創業以後のことで,その中心は,初めて時代劇映画を手がけた京都の横田商会でした。以来,時代劇映画は京都の映画産業の中核として興隆し,時代劇の生みの親牧野省三(まきのしょうぞう)によって見いだされた尾上松之助(おのえまつのすけ)ら人気俳優もその中から登場しました。

 牧野省三による動きに富んだ演出や画面の変化は,剣戟(けんげき)場面が囃子とともにチャンチャンバラバラという風に活躍するところから「チャンバラ」と呼ばれ,京都の時代映画に独特の娯楽性を与えました。

横田商会(よこたしょうかい)
二条城撮影所跡の石碑

 横田商会は横田永之助(よこたえいのすけ)が設立した映画興行会社です。横田は,初めは貿易商を生業とし,明治33(1900)年,パリ万国博覧会に京都府出品委員の一人として派遣されました。そこで発展を遂げている映画事業をみて,大いに刺激を受け,フランスの映画関連会社パテー社との間でフィルム購入を契約し,新しい映写機を持ち帰りました。

 上映にあたっては横田自ら映写技師や説明者をつとめることもあり,新京極の劇場や祇園の貸席,ときには南座を借りて興行を続けていました。

 明治37(1904)年に日露戦争が起こり,戦争映画に関心が集まると,パテー社より輸入された戦争映画によって事業が発展,会社名を横田商会(下京区仏光寺通麩屋町横田永之助邸)と名乗り,当時すでに開始してしていた地方巡業の班を増やし,自らも説明者となって興行を行いました。

 その後,横田商会は大阪・京都に映画の常設館を開館,明治43(1910)年には,尾上松之助を得て,京都ではじめて二条城西南の櫓(やぐら)の下に撮影所を建設します。

常設映画館の建設

 明治36(1903)年頃の活動写真はようやく見世物興行の域を脱しはじめ,東京の浅草に初めて活動写真専門興行の常設館(浅草電気館)が設けられました。

 京都にも同41(1908)年に南北の電気館や日本館・西陣電気館が常設されました。たとえば,横田商会が開いた新京極電気館(中京区新京極通錦小路上る東側)では,午後2時より11時まで開場し,入場料は大人10銭,小人は5銭で,毎月1日と15日には写真が入れ替わりました。

 伴奏音楽も見世物風ではなく,常雇いの楽士たちによるオーケストラに替りました。無声映画の説明にも話術の工夫が見られ,活弁(活士)とよばれるのもこのころからです。

 明治の終わりから大正のはじめにかけては,まだ映写機が手回しでした。休日など大入り満員の日には,客をはやく入れ替えるために,映写技師がはや回しをするので,歩いている登場人物までが走っているように映ってしまうことがありました。そんなとき,「はやすぎるぞォー」と大声でやじられることもしばしばでした。

日活の創設

 大正元(1912)年,横田は当時映画市場で競争していた東京の吉澤商店(日本初の映画会社),エム・パテー商会,福宝堂と合同して日本活動写真株式会社(日活)を創設します。

 製作は,太陽光線撮影のための片屋根をガラス張りにしたグラスステージの撮影所であった向島撮影所(むこうじまさつえいじょ,東京都墨田区)と法華堂撮影所(上京区御前通一条下る)で行っていましたが,社内で対立が起こり,吉澤・福宝堂系が独立,結果的には一部のエム・パテー派を残し横田派が日活社内の覇権を握るようになりました。

京都撮影所の林立

 大正9(1920)年,新京極から東京に進出した松竹合名会社は松竹キネマを設立して東京の蒲田撮影所(東京都大田区)を起点に映画産業に参入します。

 京都では翌10年に牧野省三が日活から独立してマキノ教育映画製作所(のちに株式会社マキノキネマ映画製作所へと拡大)を設立,等持院(北区等持院北町)の境内にスタジオを構えます。

 大正12(1923)年,関東大震災が起こると東京の映画関係者がこぞって京都に集まります。松竹キネマは京都下加茂撮影所(左京区下鴨宮崎町)を建設,日活も北区大将軍一条町に日活関西撮影所(通称大将軍撮影所)を構えます。

 この間,京都では,阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)をはじめとする新しい俳優,多くの監督・脚本・撮影の俊才が生まれ,独立プロダクションが林立する黄金期を迎えます。太秦(うずまさ,右京区)には独立プロダクションの撮影所がたくさん設立され,また,それにともなって,現像・貸物など撮影専門の関連企業もその周辺で成長しました。

 日活制作の時代劇は大正14(1925)年,尾上松之助主演の「荒木又右衛門」を発表したのを期に隆盛へと向かうこととなり,昭和4(1929)年,太秦撮影所へと移転します。

日本のハリウッド
当時の撮影風景

 昭和10(1935)年以後トーキー(発声映画)時代に入ると,機械設備などに巨額の資金を必要とするため,映画業界の再編成が進みました。日活・松竹・新興キネマ・マキノプロおよびP・C・Lなどの撮影所が集中した太秦は日本のハリウッドと呼ばれました。

 第2次大戦後,日活は大映となり,新興キネマは東横,東映と変わり,第2東映ができる昭和35年頃,太秦には12以上のスタジオを数えました。

 しかし,その後,テレビの普及による映画産業の衰退とともに,P・C・Lは東京の東宝に移り,マキノ撮影所は失火で焼失,昭和40年松竹京都撮影所も閉鎖しました。大映も同46年に倒産し,昭和61年,それまで貸スタジオとして利用されていた撮影所を閉鎖しました。

 現在,大映京都撮影所跡地(右京区太秦多薮町)には記念碑が残されており,大映通り商店街(三条通広隆寺前交叉点から帷子ノ辻<かたびらのつじ>交叉点まで)の一角にはかつて太秦で撮られたなつかしの映画を上映している太秦キネマがあります。

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牧野省三(まきのしょうぞう)の銅像 北区等持院北町(等持院境内)
牧野省三の銅像

 明治11(1878年,京都府北桑田郡山国村に生まれた牧野省三(1878〜1929)は,西陣に出て芝居小屋の千本座(せんぼんざ)に出入りして歌舞伎に親しみ,後に経営者となります。横田商会の活動写真興行に小屋を貸した縁でその制作を引き受け,座付きの旅役者を中心に「本能寺合戦」「明烏」などをつくりました。

 明治42(1909)年,岡山の旅役者で当時千本座で活躍していた尾上松之助(おのえまつのすけ)を,講談の英雄豪傑を演ずるスターに仕上げました。また,阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)・市川右太衛門(いちかわうたえもん)・大河内伝次郎(おおこうちでんじろう)・片岡千恵蔵(かたおかちえぞう)・嵐長三郎(あらしちょうざぶろう,寛寿郎<かんじゅろう>)・月形竜之介(つきがたりゅうのすけ)・林長二郎(はやしちょうじろう,長谷川一夫<はせがわかずお>)などをスターに育成しました。脚本家として寿々喜多呂九平(すすきだろくべえ)などを,監督として長男マキノ雅弘(まさひろ,正博,雅裕)・衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)などを育て,時代劇映画の父と仰がれています。

 日活より独立して最初に建てた撮影所が等持院の境内であったため,現在,この地に銅像が立てられています。

尾上松之助(おのえまつのすけ)の胸像 左京区下鴨宮河町(鴨川公園内)
尾上松之助の胸像

 尾上松之助(本名中村鶴三,1876〜1926)は,幼少から舞台に立ち,一座を率いて岡山市を中心に旅興行をするうち牧野省三にその身軽いケレン(派手な演技)をかわれ,京都の横田商会撮影所に招かれます。

 「碁盤忠信」(ごばんただのぶ,明治42年)に映画初出演を果たし,以後,英雄・豪傑・立ち廻り・忍術ものなど,多数の牧野監督作品に出演,時代劇映画の平俗な楽しさを一般に広めました。

 見得を切る時,大きな目をぎょろりと睨みすえるところから「目玉の松ちゃん」の愛称があり,出演千本記念作品「荒木又右衛門」を最後に急逝しました。社会福祉につくした功績により,顕彰の胸像が,京阪出町柳駅のすぐ西側にある鴨川公園葵地区(葵公園)内に建っています。

二条城撮影所跡 中京区西ノ京北聖町

 二条城撮影所は,明治43(1910)年に横田永之助の横田商会により開設された京都初の撮影所で,規模はおよそ300坪の土地に二間四間の低い板敷の舞台をしつらえ,それを開閉自由の天幕で覆うという簡単なものでした。セットの背景はすべて書き割りで,翌年には閉鎖されましたが,この二条城撮影所は大正から昭和初期の日本映画隆盛の一時代を築いた京都の映画産業の礎となりました。

 ここで,日本映画の父と言われる牧野省三が,尾上松之助とコンビを組み,京都で最初に制作された作品「忠臣蔵」を撮影,実力をつけた牧野は,その後,京都を舞台に数々の名作を手がけ,日本映画発展の基盤を作りあげます。

阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)の墓 右京区嵯峨二尊院門前長神町(二尊院内)

 東京神田で生まれた阪東妻三郎(本名田村伝吉,1901〜53)は,大正5(1916)年,片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)の門下として大阪中座で初舞台を踏みます。大正12(1923)年,映画に転じ,同14年の「影法師」以来,「雄呂血」(おろち)「魔保露詩」(まぼろし)など,一連の寿々喜多呂九平(すすきだろくべえ)脚本の時代劇作品に出演,尾上松之助など従来の剣戟役者(けんげきやくしゃ)と異なる虚無的な新しいタイプで人気を博しました。

 昭和2(1927)年,阪妻プロ(ばんつまぷろ)を創立,のちに日活に入り多数の時代劇作品に出演しました。「阪妻」と呼ばれて長く代表的スターの地位にあり,「無法松の一生」(稲垣浩<いながきひろし>監督)などの傑作を残しました。没後,右京区の二尊院に葬られました。

 ちなみに太秦の地にはじめて撮影所を建てたのが阪妻プロであり,現在の東映撮影所がその地にあたります。

牧野省三顕彰碑 右京区太秦多藪町(三吉稲荷<さんきちいなり>内)

 大映通り沿いにある三吉稲荷大社は昭和3(1928)年,日活撮影所の建設が始まった際に付近の2つのほこらを統合する形で創建されました。多くの映画人が訪れたことでも知られる小さな境内の中には「日本映画の父」と言われた牧野省三の碑が建てられています。碑の裏には,平成13年の設立に寄与した人々の名前が書かれており,映画出演者の名前も見ることが出来ます。

 また,他に映画人の名前が刻まれたものとしては,車折神社(右京区嵯峨朝日町)の玉垣や出世稲荷神社(上京区千本通竹屋町下る)の石鳥居などがあります。

東映太秦映画村(うずまさえいがむら) 右京区太秦東蜂岡町

 映画村は,東映京都撮影所内にあり,昭和50年,東映株式会社が急激な映画産業の衰退で荒廃した撮影所を活用するために,映画の製作過程を公開展示するテーマパークとして開設されました。年々拡充し現在では京都観光の一名所として定着しています。

 面積は約3万平方メートルあり,映画文化館・映画資料館をはじめ,時代劇オープンセット・映画実験室などの施設があり,随時各種イベントを行っています。

京都府京都文化博物館 中京区三条通高倉

 京都文化博物館は,日本のふるさとである京都の歴史と文化をわかりやすく紹介する総合的な文化施設として,昭和63年10月に開館しました。

 常設展には京都の歴史・美術工芸をはじめとする各種の文化情報を模型や映像,パネルなどで展示してあり,映像ホールでは,「名作映画リクエスト」によって応募のあった懐かしの映画を上映しています。

 また,この博物館は,京都府が推進するフィルムライブラリー事業を開館と同時に引き継ぎ,映画の「図書館」として京都で撮影された映画フィルムと映画関連資料を蒐集保存しています。


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