神泉苑
都市史04

しんせんえん
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どんなところ?

 平安京が造られた時,大内裏の南東に建設された苑池。当初の敷地は,北は二条大路,南は三条大路,西は壬生大路,東は大宮大路に囲まれた東西二町(約250メートル),南北四町(約500メートル),総面積約13万平方メートル。かつて湖底だった地形の名残りがそのまま苑池として造作された広大なものでした。

 中島のある大池を中心に,敷地北東の泉から小川がそそぎ,乾臨閣(けんりんかく)を正殿にして,左右に楼閣や釣殿,滝殿などが配置され,外周には柳が植えられていました。

 延暦18(799)年7月19日,桓武天皇(かんむてんのう)の神泉苑行幸を最初として,歴代天皇行幸の場となり,詩歌管弦,はやぶさを放って水鳥をとらえる遊猟,魚釣りなどの遊びが行われました。また,元慶8(884)年9月,舟三艘が神泉苑に贈られていることから,舟遊びも行われていたようです。

 平成3(1991)年の京都市営地下鉄東西線建設にともなう発掘調査により,東西の長さが判明し,舟着場,遣水(やりみず)の流路,小橋の跡を始め,池に浮かべる板,乾臨閣の屋根に葺かれていた緑釉瓦(りょくゆうがわら,大極殿や豊楽殿と同じ瓦)などが発見されました。

 9世紀後半には,雨乞い祈祷の場として用いられたり,日照りの時には水門が開かれ京中に水が放流されるなど,京の住民と関わりの深い苑池となりました。しかし,平安末期には,苑の規模も縮小され,水も濁り荒廃していきました。

 慶長12(1607)年に復興され寺となり,東寺(とうじ)の空海(くうかい)が神泉苑で雨乞いの祈祷をした縁により,現在は東寺真言宗の寺院となっています。

神泉苑御霊会って何?

 京で初めて公に御霊会(ごりょうえ)が行われたのが神泉苑です。御霊会は,政治的陰謀によって非業の死を遂げ,怨霊(おんりょう)となった人々を慰めることで疫病を鎮めた祭です。神泉苑御霊会以降,京の各所で御霊会が行われ始めました。

 神泉苑で初めて行われたこの御霊会では,貞観5(863)年5月20日,咳逆病(がいぎゃくびょう,流行性感冒)を鎮めるため,神泉苑に祭壇が設けられ,無実の罪により異郷で不遇の死を遂げた崇道天皇(すどうてんのう,早良親王<さわらしんのう>)など六名の霊前に花果が供えられました。この日,苑の四門が開放され,読経をはじめ,音楽や舞,雑技などが演じられました。 

祈雨の霊場

 天長元(824)年,東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)が雨乞いの法力を競い,空海が神泉苑に天竺の無熱池に棲む善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し,雨を降らせたといいます。記録の上で,神泉苑で初めて雨乞いを行ったのは,貞観17(875)年の真雅和尚です。その後,厄よけ・除災・雨乞いの霊場として大いに利用されました。

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現在のすがた

 神泉苑の現況。左のほこらに善女龍王をまつる。ほこらの向って右に三本の鉾が立っている。
 現在,神泉苑は二条城の南に位置します。苑内には,空海が雨乞いの際に勧請した善女龍王をまつるほこらがあります。毎年5月初めの神泉苑祭には,神の依代(よりしろ)として鉾が立てられています。

 神泉苑附近現況。四角で囲んだのは平安京当初の神泉苑のおおよその範囲。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。

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