町組
都市史16

ちょうぐみ
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町組とは?

 京都において町組とは,道路をはさんで形成された町が集まって結成した自治組織です。「まちぐみ」とも読みます。また,いくつかの町組が結合して,上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)などの惣町(そうちょう)を形成しました。上京と下京の境は二条通にありました。

町組の発生と運営
 16世紀後半の町組の状況。応仁・文明の乱後の京都は,上京と下京の二つの市街地に分かれていた。それぞれの市街地が拡大し,安土桃山時代には一つの都市になっていた。なお,上図の「二条城」や道路は現況を示している。

 上京の町組「川ヨリ西組」と,伊佐町,西船橋町,北猪熊町,北船橋町などの町前が見える「上下京御膳方御月賄米寄帳」(立入家文書)。元亀3年(1572)。

 室町期に京都の町衆たちの自治・自衛のエネルギーが法華一揆を起こし,天文法華の乱(てんぶんほっけのらん,1536年)で頂点に達しました。その教訓として,自衛や自治に対する関心が飛躍的に高まり,町衆の住む町々の団結やその組織化をさらに推進させました。町組はそのような気運の中で結成されました。

 町組が初めて史料にあらわれたのは,天文法華の乱で町々が焼き尽くされた翌年の天文6(1537)年正月のことです。この時,下京の各町組から1名づつ選ばれた代表者5人が,室町御所の将軍義晴のもとに銭二貫百文を持って年賀に出向きました。この時,下京の中組(なかぐみ)・西組(にしぐみ)・巽組(たつみぐみ)・艮組(うしとらぐみ)・七町半組(しちちょうはんぐみ)の5つの町組の代表者が,かつて法華一揆の結集地であった六角堂(ろっかくどう)に集まり,費用の割り当てを協議しました。

 天文法華の乱で下京一円が惨禍をこうむった直後にもかかわらず,このように町組が機能を十分に発揮していることからも,町組の実際の結成はこの時期よりもかなりさかのぼるものと思われます。

 上京の町組の初見は下京よりやや遅れ,天文18(1549)年の書状にみえる立売組(たちうりぐみ)で,続いて一条組(いちじょうぐみ)・中筋組(なかすじぐみ)・小川組(おがわぐみ)・川より西組(かわよりにしぐみ)が文献に見え,上京にも5つの町組があったことがわかります。しかし,これらの上京・下京の町組を構成した個々の町名が明らかになるのは,永禄11(1568)年の織田信長入京後のことです。

 各町組には,町年寄という町組を代表する役職があり,「月行事」(つきぎょうじ)とも称されました。月行事は,1か月交代で,触の伝達,諸経費の徴収などにあたりました。

 各町とその連合体である町組の自治運営組織が整備されていくと,町組の連合による上京・下京という,より広範囲の地域結合が生じました。そのころ幕府や武将から洛中への布告や通達は「上京中」とか「下京中」という宛名で出されています。

 町組の運営は,10名の総代が担当しました。総代には富裕な経済力をもつ酒屋・土倉(どそう)などの有力町衆が就任しました。

江戸時代の町組

 室町期に上京・下京5つずつあった町組は,織豊政権下でもその数に変更はありませんでしたが,江戸時代になり,16世紀末から17世紀初頭,京都の市街の発展により新しい町が成立していきました。

 そこで,これらの町を新たに町組に加入させるとともに町組全体の再編が行われました。上京は寛永15(1638)年頃までに12組(立売親八町組<たちうりおやはっちょうぐみ>・立売親九町組<たちうりおやきゅうちょうぐみ>・上中筋組<かみなかすじぐみ>・下中筋組・上一条組・下一条組・小川組・上西陣組・下西陣組・聚楽組<じゅらくぐみ>・上川東組<かみかわひがしぐみ>・下川東組)となり,下京は寛文6(1666)年頃までに8組(上艮組<かみうしとらぐみ>・南艮組・三町組<さんちょうぐみ>・仲九町組<なかきゅうちょうぐみ>・仲十町組・川西十六町組<かわにしじゅうろくちょうぐみ>・川西九町組)となりました。この頃をもって町組の再編成は,一応完了しました。

 そのほか上京中心部(禁裏御所西辺)に位置しながら上京の町組に属さない禁裏六丁町(きんりろくちょうちょう)や,下京にあって下京の町組に属さない東本願寺・西本願寺の両寺内町(じないちょう)組が整備拡張されたのもこの時期でした。

 町組内部の構成は,「親町」(おやちょう)あるいは「古町」(こちょう)と呼ばれる各町組を代表する格式ある町群と,「枝町」(えだちょう)または「新町」(しんちょう)と称される町群および「離町」(はなれちょう)などから成り立っていました。

 これらの親町(古町)群は,数か町からなるいくつかの小組に分かれ,枝町(新町)群も数か町あるいは数十か町からなるいくつかの小組に分かれていました。このシート末尾の図に見るように,非常に複雑な分布をしていたのです。

 町組の寄合(よりあい,会議)を行う場合は,寄合当番の町が自分の町会所(ちょうかいしょ)を提供しました。会所には町で雇った町用人をその管理に当らせていましたが,会所守は髪結(かみゆい)を業としていたものが多かったようです。

 明治2(1869)年,従来の町組が改正され,上京・下京合わせて65組に再編されました。この町組が現在の元学区につながっています。

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六角堂(ろっかくどう,頂法寺<ちょうほうじ>) 中京区六角通烏丸東入
六角堂

 六角堂は天台宗寺院で,正式名は紫雲山頂法寺。本堂が六角宝形造であることから六角堂が通称となりました。この地は早くから京都の中心地といわれ,境内にある臍石がその象徴とされています。

 室町時代,下京の人々の精神的なよりどころに位置付けられていました。豊臣秀吉による寺町や寺之内(てらのうち)への寺院移転集中の時に寺地を動かされなかったのは,信仰の強さを物語るものです。

 現在の六角堂は,どんどん焼け(1864)で焼失したあと,明治10(1877)年に建立されました。 

革堂(こうどう,行願寺<ぎょうがんじ>) 上京区寺町通丸太町下る
革堂

 行願寺は天台宗の寺院。寛弘元(1004)年頃,行円によって創立されました。行円は鹿皮の衣を身に付けていたため革聖(かわひじり)と呼ばれ,その寺も革堂という俗称で呼ばれました。

 中世には下京の六角堂に対して上京の革堂といわれ,人々の信仰を背景に,町堂として町組集合結束の場所となりました。 

 もとは一条油小路(いちじょうあぶらのこうじ)にあり,一条北辺堂とも呼ばれていましたが,豊臣秀吉の寺町造営で天正年間(1573〜91)に寺町荒神口(てらまちこうじんぐち)に移りました。さらに,宝永5(1708)年の大火後に現在地に移りました。

 江戸時代の町組分布図(19世紀初め)。前々頁の図の町組を核にして,次第に新しい町を取り込んで複雑な構造になってきたことがよくわかる。

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