伏見城
都市史20

ふしみじょう
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どんな城?

 伏見区桃山の丘陵に豊臣秀吉・徳川家康が築いた複数の城の総称。元和9(1623)年に廃城となりました。現在は本丸跡周辺に明治天皇陵があります。また,その跡地の一部には,昭和39(1964)年に遊園地の伏見桃山城キャッスルランドが開園し,天守閣が作られましたが,これは秀吉・家康の伏見城とは全く別のものです。なおキャッスルランドは平成15(2003)年1月に閉園しましたが,天守閣は残されました。

秀吉の伏見城
指月の岡

 伏見城の前身は,文禄元(1592)年,宇治川に臨む「指月(しげつ)の岡」(現伏見区桃山町泰長老<たいちょうろう>)に造営された秀吉の別荘。その翌年,嫡子秀頼が誕生したことから,秀吉の隠居城建築の計画が本格的な築城に改められ,天守閣などの城郭施設が整えられました。

 しかし,慶長元(1596)年閏7月の大地震(慶長の大地震)で倒壊,木幡山(こはたやま,現伏見区桃山町明治天皇陵域内)に場所が移され,新たに築城されました。

 10月には本丸が完成し,翌慶長2(1597)年5月に天守閣や殿舎が完成,秀吉・秀頼らが入城しました。聚楽第(じゅらくだい)をはじめ多数の建物が移築されたと伝えられています。同年10月には,「舟入(ふないり)学問所」といわれる茶亭が完成し,宇治川から直接舟を横付けできました。この遺構は,桃山町丹後に南北約300メートル,東西90メートルの窪地として残っています。

 本丸の中央北には,天守閣があり,本丸を取り囲む郭は,秀吉側室の居所とされ,周囲の郭は秀吉側近の邸宅が配置されました。内郭の南東端には,山里丸・御茶山など,自然の景観を生かした学問所や茶亭が築かれました。慶長3年(1598)8月18日,秀吉はこの城で,その生涯を終えました。

 秀吉による伏見城の築城により,伏見は城下町として大きく発展しました。

家康の伏見城

 秀吉の死後,徳川家康が豊臣秀頼の大老として伏見城に入りましたが,慶長5(1600)年,関ヶ原合戦の前哨戦によって落城。慶長7(1602)年,家康によって再建され,その翌年,家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。家康は将軍在任中のほとんどを伏見城で過ごし,伏見城は,近畿地方における徳川政権の拠点となりました。

 大坂の陣で豊臣氏が滅亡した後,一国一城令により京都に二条城と伏見城の2つの城を維持する名目がなくなり,元和9(1623)年の徳川家光の将軍宣下が行われたことを最後に,伏見城は廃城になりました。

 廃城後,各地の寺社などに伏見城の遺構が移築されましたが,これらのほとんどは,豊臣秀吉時代の伏見城ではなく,徳川家康時代の伏見城の遺構と考えられています。

 取り壊された伏見城跡の一帯には,桃の木が植えられ,桃山という地名が生まれました。後年,明治天皇陵造営によって,本丸跡附近が陵地となり,現在往時をしのぶものは,内堀の一部が紅雪池(こうせついけ)や治部池(じぶいけ)として残っているほかはほとんど見られません。

 伏見大手筋は,大手門に面した道路で,大名屋敷にちなむ永井久太郎(ながいきゅうたろう,永井右近<うこん>・堀久太郎),毛利長門(もうりながと),羽柴長吉(はしばながよし)などの町名があります。また,瀬戸物町(せとものちょう),塩屋町,納屋町(なやちょう)など町人町のなごりも見られます。伏見は,城下町でなくなった後も,陸上・水上交通の要所として重要視され,都市として生き続けました。

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伏見城石垣 伏見区桃山町伊庭(桃山東小学校内)
伏見城石垣

 昭和52(1977)年,桃山東土地区画整理事業の作業中,慶長元(1596)年に築かれた帯曲輪(くるわ)の基礎部分にあたる全長約100メートルの石垣が発見されました。石1個の重さは1トンから2トン半。石には墨で「二」「上」「大た尓」(おおたに)の文字が書かれていました。そのうち,15メートル分が桃山東小学校に移築復元されました。京都市登録文化財。

 出土した石約300個には御香宮境内に保管されたものと,京都市西京極総合運動公園ゲートのモニュメントとして保存活用されているものがあります。

豊国神社(とよくにじんじゃ) 東山区正面通本町東入茶屋町

 豊臣秀吉を祀る神社。俗にホウコクさん。慶長3(1598)年,秀吉の遺体が東山の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)山頂に葬られ,翌(1599)年,社殿が山麓に創建されました。秀吉七回忌には盛大な臨時祭礼が行われ,その様子は「豊国臨時祭礼図屏風」に描かれています。

 唐門は伏見城の遺構と伝えられ,国宝に指定されています。

養源院(ようげんいん) 東山区大和大路通七条下る三十三間堂廻り町

 浄土真宗遣迎院派。本尊阿弥陀如来像。文禄3(1594)年,淀君(よどぎみ)が父浅井長政(あざいながまさ)の菩提を弔うため創建しました。元和5(1619)年火災で焼失しますが,2年後,淀君妹の崇源院(徳川秀忠夫人)が伏見城の遺構を移して再建し,その後,将軍家の位牌所,皇室の祈願所となりました。

 伏見城から大聖歓喜双身天王像が移されたと伝えられ,聖天さん(しょうてんさん)として信仰されています。また,本堂正面と左右の廊下に張りめぐらされた天井は血天井(ちてんじょう)と呼ばれ,伏見城落城の際,鳥居元忠(とりいもとただ)らが自刃した廊下の板を用いたと伝えます。

正伝寺(しょうでんじ) 北区西賀茂鎮守庵町

 臨済宗南禅寺派。本尊釈迦如来。文永5(1268)年,兀庵普寧(ごったんふねい)を開山として一条今出川に創建。延暦寺衆徒に破壊された後,弘安5(1282)年,賀茂の祠官森経久の援助で現在地に再興され,応仁・文明の乱によって焼失した後,豊臣秀吉や徳川家康の援助で再建されました。

 本堂(方丈)は,寛永年間に伏見城の殿舎が移築されたと伝えられ,重要文化財。広縁の天井は血天井と呼ばれ,伏見城落城の際,鳥居元忠らが自刃した廊下の板を用いたと伝えます。

源光庵(げんこうあん) 北区鷹峯北鷹峯町

 曹洞宗。本尊釈迦牟尼仏。貞和3(1347)年大徳寺二世徹翁義亨(てっとうぎこう)が隠居所として創建。本堂廊下の天井は血天井と呼ばれ,伏見城落城の際,鳥居元忠らが自刃した廊下の板を用いたと伝えます。

高台寺(こうだいじ) 東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町

 臨済宗建仁寺派の寺。本尊は釈迦如来。慶長10(1605)年豊臣秀吉の夫人北政所(きたのまんどころ,高台院)が秀吉の菩提を弔うため,徳川家康の援助を受けて創建。

 表門は,観月台とともに伏見城の遺構と伝えられています。また,茶室の時雨亭(しぐれてい)や傘亭(からかさてい)も伏見城の遺構と伝えられます。

金地院(こんちいん) 左京区南禅寺福地町

 南禅寺塔頭のひとつ。臨済宗。本尊地蔵菩薩。応永年間(1394〜1428)足利義持の帰依をうけた大業徳基が洛北鷹峯に創建し,慶長10(1605)年頃,南禅寺の中興開山以心崇(いしんすうでん)伝が現在地に移転しました。

 方丈は,伏見城の旧殿を移築したと伝えられ,重要文化財に指定されています。

華光寺(けこうじ) 上京区出水通六軒町西入北側

 日蓮宗妙顕寺派。本尊は十戒曼陀羅。天正11(1583)年,日堯(にちぎょう)が豊臣秀吉の保護を受け創建。本堂に安置されている毘沙門天像は,伏見城内に秀吉が奉祀していたものといい,鞍馬寺の毘沙門天と同木同作と伝えられています。

観音寺(かんのんじ) 上京区七本松通出水下る

 もと浄土宗鎮西派知恩院の末寺。現在は単立寺院。本尊阿弥陀如来。開基は不明。

 山門は伏見城の牢の門と伝えられています。伏見城の牢の門は,罪人が釈放される際,門前で100回も鞭を打ったことから百叩門(ひゃくたたきもん)とも呼ばれました。観音寺の山門のくぐり戸が雨風で開く時,人の泣き声がするといわれ,出水七不思議(でみずななふしぎ)のひとつに数えられています。

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ) 伏見区桃山御香宮門前町

 祭神は神功皇后・仲哀天皇・応神天皇。創祀は不明。室町時代には,伏見庄の産土神として崇敬されました。

 文禄3(1594)年,秀吉は伏見城を築城するにさいし,一時的に御香宮神社を現在地から大亀谷(おおかめだに,現伏見区深草大亀谷)に移し,伏見城の鬼門の守護神としました。その後,慶長10(1605)年,大亀谷から元の地へ奉還されました。

 表門(重要文化財)は,秀吉時代の伏見城の大手門と伝えられ,元和8(1622)年に寄進されました。俗に金箔瓦といわれる伏見城の瓦が保存・展示されています。

桃山天満宮(ももやまてんまんぐう) 伏見区桃山御香宮門前町

 祭神は菅原道真。もと木幡山の中腹,御香宮神社の東方にあった竜幡山蔵光庵の鎮守社でした。伏見城の築城によって,庵は臨川寺(りんせんじ,右京区嵯峨北造路町)の東に移され,天満宮はそのまま残りました。昭和44(1969)年,御香宮神社境内に遷宮されました。

正行院(しょうぎょういん) 下京区東洞院通塩小路下る東入

 浄土宗捨世派(しゃせいは)の寺。天文7(1538)年,円誉道阿(えんよどうあ)によって開山されました。通称猿寺(さるでら)。通称は,元亀2(1571)年,猟師が猿の首につけられた南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号札(みょうごうふだ)を見てその命を助け,名号を書いた円誉の門弟になったという言い伝えに基づきます。

 本堂は,伏見城が壊された時,寛永年間(1624〜44)徳川家光によって寄進され,改造して建てられたものと伝えられています。

般舟院(はんじゅいん) 上京区今出川通千本東入北側般舟院前町

 正しくは般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)。天台宗。本尊阿弥陀如来。後土御門天皇が恵篤上人(えとくしょうにん)善空(ぜんくう)を請じて開山とし,伏見指月に創建。以後,皇室の菩提所となりました。文禄3(1594)年,豊臣秀吉による伏見城築城のため移転を余儀なくされ,現在地に移りました。

 明治維新後,般舟院に安置されていた歴代天皇の位牌は泉涌寺(せんにゅうじ)に移され,寺地の大部分は上京第七番組小学校(現嘉楽<からく>中学校)となりました。現在は元三大師堂(がんざんだいしどう)が残っています。

 この他,伏見城から移されたと伝える建造物は全国にあります。特に滋賀県大津市西教寺(さいきょうじ)の客殿と広島県福山市福山城の伏見櫓(ふしみやぐら)は,伏見城の遺構として確実視されています。

 中でも西教寺客殿の遺構には棟札があり,慶長3(1598)年に大谷刑部(おおたにぎょうぶ)母と山中山城守夫人の本願によって建立された旨が確認でき,客殿や柱,長押に不自然な裂け目が入っていることから,慶長大地震によって倒壊した指月の伏見城客殿であったと考えられています。


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