宝永の大火
都市史23

ほうえいのたいか
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被害状況は?

 宝永の大火とは,宝永5(1708)年3月8日の未明に発生した大火です。油小路通(あぶらのこうじどおり)姉小路(あねやこうじ)下る宗林町の銭屋市兵衛宅から出火 。西南の風にあおられ,禁裏御所をはじめ,北は今出川通(いまでがわどおり),南は錦小路通(にしきこうじどおり),西は油小路通(あぶらこうじどおり),東は鴨川畔にまで火が達しました。

 この火災による被災家屋の正確な戸数はわかりませんが,禁裏や公家屋敷95軒,町数417町,家数1万351軒,寺社119か所,大名屋敷21軒が焼失したという記録もあります。

大火の影響は?

 宝永の大火は広大な範囲を焼失したため,京都の町並みに大きな変化を与えました。その一つが市街地の拡大です。これは,焼失した禁裏の再建に伴い,公家町(くげまち)を拡張するために,烏丸東側と丸太町北側の町家を,鴨川東の二条川東(にじょうかわひがし,左京区)と内野(うちの,平安京大内裏旧地)などに移転させたことです。

 宝永大火以前は,いまの京都御苑(きょうとぎょえん,京都御所周囲)の範囲には公家の邸宅が集まっていましたが,その間に民家がまじっていたのです。これが大火後には収用され,烏丸通(からすまどおり)・寺町通(てらまちどおり)・丸太町通(まるたまちどおり)・今出川通(いまでがわどおり)の各通りで囲まれた範囲すべてが公家町になったというわけです。

 二条川東は,もと聖護院村(しょうごいんむら)と岡崎村の畑地だったところで,大火以前には,頂妙寺(ちょうみょうじ)と法林寺(ほうりんじ)が建っているだけでしたが,大火後には多くの町や寺院が移転してきました。このあたりの通り名には,新東洞院通(しんひがしのとういんどおり)など,「新」を冠するものがたくさんみられます。これらは移転以前の旧地にちなんで名付けられたものです。

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「新」のつく通り名

 二条通を東へ進み,鴨川を越えたあたりが江戸時代に二条川東と呼ばれた地域です。

 この地域には,新丸太町通(しんまるたまちどおり),新麩屋町通(しんふやちょうどおり),新車屋町通(しんくるまやちょうどおり),新富小路通(しんとみのこうじどおり),新東洞院通(しんひがしのとういんどおり),新柳馬場通(しんやなぎのばんばどおり),新間之町通(しんあいのまちどおり),新堺町通(しんさかいまちどおり),新高倉通(しんたかくらどおり)など,新の字を頭につけた通り名がたくさんあります。

 また,鴨川の西側でも,河原町通の一筋西に新烏丸通(しんからすまどおり)が南北に通っています。これも烏丸通沿いの民家が移転させられたなごりです。

 宝永の大火の消失範囲を示す古地図(京都市歴史資料館蔵)。右上は御所,下端は四条通,左端は堀川通。細い線で囲まれた範囲が焼失。

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