京都市の市街地は,今もなお,平安京以来の碁盤目状の都市構造を特徴としている。そうでありながら,1200年の間に,都市のかたちは時代の変遷とともにその姿を変えてきた。東西約4.5km,南北約5.2kmと長方形の平安京域のなかで,東に偏り,南北にくびれ,その南北が再び統合し,今度は都市域を東西南北に拡大する。その変化をたどると,京都盆地という自然条件の中で日本の古代都市の集大成としてつくられた都市の範囲が,幾多の変遷を経て再び現代に甦った感がある。都市「京都」は,京都盆地という自然の中に抱かれている。 そして今は,かつての後背地としての北部,西部の山間地をも含む広大な範囲に広がっている。
 京都の都市のかたちの変遷を概念図で示すと次のとおりとなる。

 東西約4.5km,南北約5.2km,面積約23.4km2の平安京は,延暦13(794)年に同じ京都盆地西南部の長岡京から遷都して誕生した。その造営は,これまでの都づくりを集大成したもので,遷都の前年から延暦24(805)年まで続いた。
 左右対称の都市構造をもつ平安京は,中心軸に朱雀大路が南北にとおり,その南端が都の正門である羅城門,北端が内裏や大極殿などからなる平安宮に接していた。
 この時期の平安京は,貴族をはじめ地方民の京中近住が進み,細民の流入も見られたが,まだ必ずしも全ての地域における居住や都市活動の実態を備えているわけではなかった。

 平安京に多くの人々が住み,都市活動が活発になった。9世紀後半火災が頻発し,疫病が流行するなど,いわば都市問題が発生するのもその表れである。それにともない,当初の平安京もそのかたちを変えることになる。 都市域は,利便性を求めて平安京の左京域にかたよっていく。上級貴族のほとんどは左京の北部に居住し,右京は急速に農村化していく。
 10世紀から11世紀にかけては,藤原氏を中心とした貴族政治が展開し,女性の活躍もあって平安貴族らによる王朝文化のもっとも華やかに花開いた時期である。

 左京にかたよっていた都市域は,10世紀には北と南で独自の展開をみせはじめる。 一条・二条を中心とする北部には貴族の大邸宅や官庁施設が多く,四条から七条あたりには庶民の住宅や店舗・工房がひろがり,北部では「上京」が,南部では「下京」が形成されていく。
 貴族の別荘や寺院群が,11世紀後期から13世紀にかけて京域外の白河や鳥羽などで形成され,平安京域という枠組みは,都市の実態としては解体していく。
 この時期,北部に位置した平安宮(大内裏)が,荒廃して「内野(うちの)」と称され,14世紀には新たに造営された足利幕府の室町殿と,ほぼ現在地に移転した御所とが北部の中核施設となる。

 京都を戦場とした応仁・文明の乱(1467〜77年)をとおして,京都は上京と下京という二つの町に凝縮していく。 歴史的に京都が都市として最も小さくなった時期である。
 小さくはなったが,この時期には公家・武家・僧侶・諸職人・諸商人などが混在し,諸階層・諸分野が密接に絡み合う密度の高い都市活動が 展開し,凝縮された都市であるがゆえの現代に続く都市文化が熟成された。
 またこの時期には,上京と下京に,京都盆地のなかに点在する門前町(上賀茂や西ノ京)や津(淀や伏見などの港)などに加えて,洛中と洛外とを一体的にとらえて認識されるようになる。いわゆる「洛中洛外図屏風」の世界である。
 16世紀の末,豊臣秀吉は聚楽第や御土居,伏見城の築造などの大規模な都市改造を行った。 その結果,市街地には条坊制の街路が復活し,短冊形の町割がなされ,寺町・公家町などがつくられた。 秀吉は,大坂や伏見にも都市を築いたので,唯一の中核都市という京都の政治的重要性は薄れるが,近世都市・京都の基礎ができあがる。
 次いで,徳川政権による二条城の造営(1603年)により,京都には内裏と二条城という公武の二つの核が並存することになった。また,東西本願寺の成立(1602年)により六条以南の開発(市街地化)が進行した。
 18世紀初頭までに京都は産業と文化・観光の成熟した都市として確立する。
 この時期には,御土居の範囲をこえて近世都市・京都が発展していく。特に,宝永・天明などの大火を契機に市街地の拡大と再整備が進められた。宝永の大火(1708年)では,御所周辺の町家が鴨東などに移転されて新しい市街地を形成するとともに,公家町を含む 御所の範囲もほぼ現在の御所の大きさになる。不要な御土居が壊されるのもこの時期である。

 近世京都の中核施設は二条城と御所であったが,三条通や室町などのメインストリートには,商工業者らによる中心市街地が形成されていた。

 東京遷都による京都衰退の危機感は,京都近代化へのバネとなる。京都市政の発足など,近代的な地方自治行政制度の確立過程を通して,近代都市としての都市基盤整備が進められる。明治の中・後期から大正初期にかけての二次にわたる琵琶湖疏水の開さくと上水道の敷設はその最大の事業であった。同時に,市電の建設と基幹道路の拡幅・延長は,近代都市としての発展には欠かせないものであった。
 都市域の拡大を展望しながらのこうした都市基盤整備は,大正から昭和初期にかけても継続的に進められて現代の原型としての京都の都市は建設され,拡大発展した。周辺市町村の編入合併もあって,昭和6(1931)年には面積約288km2の100万都市が誕生した。