松永君紀功碑 碑文の大意
 松永氏は名は伍作,越前の人松永仁右衛門氏の長男である。嘉永6年5月28日に今立郡片上村に生まれた。性格は忠実で寛大,精力は人を大きく超えた。明治7年に内藤新宿の農事試験場に入り,養蚕を専門に勉強した。明治17年に官立の蚕病試験場が内山下(現東京都千代田区)が新設されると推挙されて(場長に?)就任した。同19年に試験場は西原に移転し,蚕業試験場と改称した。松永氏は日本と外国の技術を斟酌し養蚕の標準技法を定めた。同29年に蚕業講習所の設置にも尽力するところが多かった。明治30年,官命により清国へ出張し蚕種を持ち帰った。
 氏は,関西は養蚕に適した地なのだが,現在東日本に遠く及ばないのは適当な講習施設がないからである。講習所を設立し東西が協力すれば,日本の養蚕業は必ず盛んになると考えた。明治32年に官立の京都蚕業講習所が洛西衣笠村に設立されると,この持論によって所長に抜擢され運営に尽力した。松永氏は需要に応じて女子蚕業講習所を別に設立しようと計画し,ほどなく実現した。しかしその時には松永氏は病にかかり没したのである。明治41年4月1日のことで,享年56。官吏になって約30年,勲五等瑞宝章を賜っていたが,死去に先だち特別に正五位に叙せられた。
 松永氏の妻は戸野氏で,二男一女を生んだ。長男盛親は現在海軍大尉に任官し,次男を寿という。娘栄子は本間氏に嫁いだ。
 氏は懇切丁寧に人を教育し,教えを受けた者は三千人以上になる。いろいろな所から指導を乞われ,毎年そのたびに指導に赴いた。聞くところでは,近年日本からの蚕糸の輸出が増加し続けているそうだ。需要のタイミングが良いということもあるが,松永氏のような適任者がいなければこの成長は望めなかっただろう。
 最近,氏を知る人が顕彰碑を建てようと計画し,わたし(筆者重野安繹)に碑文を依頼求したので執筆した次第である。(以下銘略)