中山家遠祖墳表記碑 碑文の大意
 わが家の始祖正二位前内大臣公は名を忠親という。大職冠鎌足公の子孫で,花山院家第二大忠宗公の第三子である。初め三条堀川に住んだが,のち洛東の中山というところ,吉田寺の南に移居した。このために中山を家名とした。また別荘があり,別荘の東は野が広がり,北の土地に仏堂を建てた。『山城名勝志』などに内大臣殿中山堂と記すのがこれである。忠親公から満親公までの八代は中山堂のかたわらに葬り,中山家の墓所とした。
 室町時代以降は朝廷が衰退し,京都は騒乱の中にあり,邸宅や別荘のことに心を用いる者がなくなり,その場所がわからなくなってしまった。実に残念なことである。ただその当時にはまだ家の記録があり,それにより推測することは可能であった。しかし天明の大火で残された記録類も焼けてしまい,九代定親公以下戦国時代末にいたる当主六名の墓所もわからなくなった。今はただ『薩戒記』(定親の日記)のみが頼りである。
 祖父従一位忠能公は以上のことを慨嘆し,先祖の墓所を探索しようとしたが,成果を見ずに亡くなられた。不肖わたくし(撰者中山孝麻呂)も以下のとおり思いをめぐらしてみた。
 『薩戒記』は応永から嘉吉年間に定親公が記されたものである。その中に「予(中山定親)いわく,中山御廟とは中山家代々の墓所である。その地は真如堂の西に位置し,観音堂から艮(北東)に二町ばかり離れている。中山御廟は中山内大臣殿(忠親)のゆかりの地であり,その跡が現在の所領である」(応永三十三年七月十三日・十四日条)と記す。これからわかるのは,その時には中山堂が存在していたことである。そのあとの六名もまたこの地に葬られたのであろう。
 近ごろ応仁乱前の図というものを入手した。これには堂舎や別荘が明記され,方角も『薩戒記』の記述と符号する。これもひとつの証拠である。そこで旧臣大口祀善に実地調査を依頼し,去年の秋にはわたしもまた現地におもむいた。
 その結果わかったのは,『薩戒記』にいうところの真如堂は,古くは今の真如堂の地の東数町に相当し,旧真如堂村の地名が今なお残っている。観音堂はすなわち吉田寺のこと。昔は近衛坂の南,善正寺の西に位置した。今なお吉田畝という地名が残る。現在の地名から昔のことを推量すると,あまりまちがったことにはならない。すなわち中山堂は今の真如堂の前、近衛坂の北,いにしえの車大路のそばにあったと考えるのが妥当であろう。
 ただ五百年を経てあまりに景観が変わっているので,これだと確実に言えることはできない。これ以上は憶測を重ねることになる。そこで墓所のわからぬ十四公の官位と名を碑に刻み,京都廬山寺にある中山家の現墓所に建てるものである。この碑を墓のかわりにし,年忌の法要を勤めるところとする。ただしわたしはこれで満足しているわけではない。子孫の者が怠らず解明につとめたら,たとい明知神の如き人に出会わなくとも,真の遺跡をしることができないとは限らない。子々孫々の者よ,よく覚えておきなさい。