今様
文化史05

いまよう
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今様とは

 今様とは今日風・現代風の意味ですが,歴史的には,平安時代中期から鎌倉時代にかけて,宮廷で流行した歌謡のことを指します。これを「今様歌」といい,今様はその略です。神楽歌(かぐらうた)・催馬楽(さいばら)など以前からの歌(古様)に対して,当代最新(今様)の流行歌という意味がありました。

 今様は主に七五調四句の形をとり,当時は長いくせのある曲調が特徴と感じられたようです。扇や鼓などで拍子をとる場合や楽器の演奏をともなう場合もあり,また即興で歌ったり,歌詞を歌い替えたりすることもありました。

 また,その形式には様々な種類があり,それら全体を指して今様と呼ぶ広い意味と,その一つを指して今様と呼ぶ狭い意味とがありました。後者の場合は「只の今様」「常の今様」とも呼ばれました。

 そのほか,仏教歌謡の影響を受けた法文歌(ほうもんうた)や,神事歌謡・民間歌謡などの影響を受けた四句神歌(しくかみうた)・二句神歌(にくかみうた),また和歌とかかわりの深い長歌(ながうた),さらに定まった形が整えられていない古柳(こやなぎ)など多くの種類がありました。

今様以前─神楽歌・催馬楽・風俗歌

 今様が現れる以前,宮廷歌謡として貴族の間に定着していたのが,神楽歌(かぐらうた)・催馬楽(さいばら)・風俗歌(ふぞくうた)です。

 神楽は神事のときに神を降臨させるための舞や,神とともに飲食・歌舞する儀式を起源とし,宮廷では9世紀頃から年間行事の儀式として整えられていきました。神楽歌は,その神楽で歌われた歌謡を指します。

 一方,催馬楽は地方から都に伝えられたもので,民間で即興風に歌われていた神楽歌の一部が発達したものともいわれます。10世紀には『催馬楽譜』(さいばらふ)という楽譜も作成され,雅楽風に管弦の合奏と組み合わせて遊宴で盛んに歌われました。

 また風俗歌も,もとは催馬楽と同じく地方の民間で歌われた歌謡で,特に東国のものが多いことが特徴です。やはり10世紀には貴族の間に定着し,遊宴で歌われました。

 これらの神楽歌・催馬楽・風俗歌は,いずれも9〜10世紀頃から宮廷歌謡として整えられ,次第に形式化していきました。そうした流れのなかで,11世紀頃,新鮮な当世風の歌謡として登場してきたのが今様です。

今様の流行

 ちょうどその頃に活躍した二大女流文人,清少納言(せいしょうなごん,966頃〜1017以降)と紫式部(むらさきしきぶ,970年代〜1010年代)はそろって今様について記しています。

 清少納言は,随筆『枕草子』で「うたは,風俗。(中略)神楽歌もおかし。今様歌は,長(なが)うてくせついたり」(261段)と,風俗歌や神楽歌に続いて「今様歌」をあげ,歌が長くて節回しにくせがある,とコメントしています。

 また『紫式部日記』には,貴族が宿直のため内裏に泊まり込んでいるとき,遊びとして「読経(どきょう)あらそひ」(読経の声を競ったもの)とともに「今様歌」が歌われたことが書き留められています(寛弘5〈1008〉年8月条)。

 これらは,今様の形式がそれまでの古様に比べて新奇に感じられたことや,この頃には貴族の間で流行となっていたことを示しています。

後白河法皇の登場

 後白河法皇(1127〜92)は鳥羽法皇の第四皇子に生まれ,久寿2(1155)年から保元3(1158)年まで在位の後,譲位して上皇となり,また出家して法皇となりました。

 後白河法皇は仏教に深く帰依したほか,芸能にもかかわりが深く,また絵巻物製作のプロデューサー的存在ともなるなど,平安末期の王朝文化に大きな役割を果たした人物です。

 特に,当時の宮廷で盛んとなっていた今様には若年の頃から強い関心を示し,ほとんど執念ともいえる情熱を注いで習得と鍛錬につとめました。

 彼は本来,即位する立場になかったため,若い頃は不遇ながらも比較的束縛されずに育ったものと思われます。こうした環境が,今様のような流行の芸能へ彼を接近させる背景となったのかもしれません。

 ともあれ,今様の流行は後白河法皇という最大の支持者・理解者を得て最大のピークを迎えることになりました。承安4(1174)年9月,15夜にわたって法住寺殿で開催された「今様合」は,その隆盛の頂点を示すものといえます。

『梁塵秘抄』の世界

 後白河法皇は,その高い身分にもかかわらず今様の第一人者を自認し,様々な歌詞や歌い方などを正しく後世へ伝えるため,これらを集成して『梁塵秘抄』を著しました。

 現在その大部分は失われてしまいましたが,本来は歌謡集10巻と口伝集(くでんしゅう)10巻の全20巻から構成されていたと考えられ,『梁塵秘抄』とはこれらを総称したものです。『日本古典文学大系』73巻,『新日本古典文学大系』56巻(両書とも岩波書店)などで読むことができます。

 それでも現在,歌謡集には566首におよぶ歌詞が残されており,今様の世界を具体的に知ることができます。以下,歌謡集巻二の四句神歌から,例を見てみましょう。

  嵯峨野の興宴は 鵜舟(うぶね)・筏師(いかだし)・流紅葉(ながれもみじ)

   山蔭(やまかげ)響かす箏(しょう)の琴 浄土の遊びに異ならず

   ○嵯峨野の風物を歌ったもの。

   【鵜舟】鵜飼船。【筏師】筏作り・筏流しの労働者。

  遊女(あそび)の好む物 雑芸(ぞうげい)・鼓(つづみ)・小端舟(こはしぶね)

    翳(おほがさかざし)・艫取女(ともとりめ) 男の愛祈る百大夫

   ○遊女にまつわる風俗を列挙して歌ったもの。

   【雑芸】今様を中心とする歌謡。

   【小端舟】舟につけて客を求めるための小舟。

   【翳】背後から長柄傘をさしかける人。

   【艫取女】舟こぎの女性。

   【百大夫】遊女の守り神。

 以上のように,そこには風景や遊女のイメージを歌ったものをはじめ,仏や神への信仰,当時の都で流行していた風俗や服装,また人生や恋愛を歌ったものなど多様な内容が含まれており,都や地方を問わず,当時の世相や人々の考え方などが生々しく描き出されています。

今様の第一人者としての後白河法皇

 一方,口伝集には今様の起源や歌い方の技巧などが記されていたほか,今様にあけくれた法皇の自叙伝的な内容も含んでおり,彼の熱中ぶりをうかがうことができます。

 彼は即位以前の10歳ばかりで今様を始め,それ以来,「四季につけて折を嫌はず,昼は終日(ひねもす)に謡ひ暮し,夜は通夜(よもすがら)謡ひ明さぬ夜は無かりき」とあるように欠かさず鍛錬につとめ,また「余り責めしかば,喉腫れて,湯水通(かよ)ひしも術(ずち)無かりしかど,構えて謡ひ出(いだ)しにき」と,喉をつぶしてもなお歌を止めなかったと語っています。

 また,詩文・和歌・書道などは書いた物が後世に残るけれども,「声技」(こえわざ)は自分の死後は残らない。だから後世の人のため,これまで存在しなかった今様の口伝を作成して遺すのだ,と述べています。長年にわたり研鑽を重ねて習得してきた今様を,また今様の第一人者としての自分の足跡を,正しく後世に伝えたいという強烈な思いが窺われます。

 しかし皮肉にも,宮廷芸能としての今様はこの時代を全盛期として,これ以降は次第に衰えていくことになります。

今様の伝え手─遊女(あそびめ)・傀儡女(くぐつめ)・白拍子(しらびょうし)

 口伝集によれば,後白河法皇が特に今様の師と仰いだのは乙前という遊女でした。法皇は乙前と師弟の契りを結んで御所に住まわせ,彼女が知る限りの歌の伝受につとめました。

 さらに乙前だけでなく,「上達部(かんだちめ)・殿上人(でんじょうびと)は言はず,京の男女,諸所の端者(はしたもの)・雑仕(ぞうし),江口・神崎の遊女,国々の傀儡子(くぐつ),上手は言はず,今様を謡ふ者の,聞き及び我が付けて謡はぬ者は少なくやあらむ」とあるように,後白河法皇はあらゆる人々から今様の伝え手を求め,側について習いました。

 特に,ここにも見える遊女や傀儡子は,今様の伝播や伝承の担い手として重要な役割を果たしていた人々でした。

 江口(大阪市東淀川区)・神崎(兵庫県尼崎市)は,淀川・神崎川沿いにあった船の停泊地で,ともに交通の要衝として人の往来が多く,彼らを客とする遊女が多く住んでいたところでした。

 また傀儡子は,人形使いや曲芸を生業とする人々です。女性の傀儡女は遊女でもあり,口伝集では「美乃(美濃)の傀儡子」「墨俣(すのまた)・青墓(あおばか)の君(遊女)」などと書かれています。墨俣(岐阜県安八郡墨俣町)は美濃・尾張の境で木曽・長良・揖斐三川の合流点にあたり,青墓(岐阜県大垣市青墓町)も同じく美濃国にあった東海道の宿駅です。

 こうした遊女や傀儡女は,職業柄,交通の要衝に本拠を置いて,芸能に携わり今様の謡い手となっていました。それが京都にも伝えられて宮廷で流行を呼び,やがて後白河法皇によって集大成されることになったわけです。

 このほか,院政時代の宮廷では白拍子という女性達も今様の謡い手となっていました。本来,白拍子とは拍子のとり方を意味しましたが,やがて歌舞の名称となり,さらにそれを男装して舞う遊女の呼び名となったものです。特に『平家物語』に登場する祇王(ぎおう)・祇女(ぎじょ)や仏御前(ほとけごぜん),また源義経(1159〜89)に寵愛された静御前(しずかごぜん)らがよく知られています。

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法住寺殿(ほうじゅうじどの)跡 東山区三十三間堂廻町
三十三間堂内に建つ法住寺殿跡の石標
 

 法住寺殿は,後白河法皇が応保元(1161)年に造営した御所です。この地一帯には,北殿・南殿など殿舎や蓮華王院(れんげおういん,三十三間堂)・最勝光院(さいしょうこういん)などの御堂が次第に整えられていき,後白河院政の拠点となりました。承安4(1174)年9月には貴族が集められ,十五夜にわたって今様を歌い優劣を競いあった「今様合」(いまようあわせ)の舞台ともなっています。

 しかし寿永2(1183)年には木曽義仲(きそよしなか)の襲撃で焼失し,再建されたものの,法皇の没後は荒廃しました。三十三間堂内と東隣の法住寺に,御所跡を示す石標が建てられています。

後白河天皇法住寺陵

 また同じく三十三間堂の東隣,養源院の南には後白河天皇法住寺陵があり,鎌倉時代の作と伝えられる法体の木造坐像を安置した法華堂があります。現在の法住寺は,江戸時代,この陵を守護するために創建されたものです。



 右は法住寺殿の周辺地図。三十三間堂東隣が南殿,その北側が北殿にあたる。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。
祇王祇女仏刀自旧跡(ぎおうぎじょほとけとじきゅうせき)
祇王祇女仏刀自旧跡石標
 右京区嵯峨鳥居本小坂町(祇王寺内)

 祇王・祇女の姉妹は,母刀自とともに白拍子になり「都に聞えたる白拍子の上手」といわれました。

 祇王は平清盛(たいらのきよもり,1118〜81)に寵愛されましたが,やがて同じく「白拍子の上手」であった仏御前へ清盛の寵が移ると,母娘3人は世をはかなみ,嵯峨野往生院に隠棲するようになりました。さらに仏御前も追ってこの地を訪れ,4人は念仏三昧の日々を送って往生を遂げたといいます。

 以上は『平家物語』に描かれた逸話ですが,往生院は良鎮(?〜1182)の創建と伝え,江戸時代,この話をもとに尼寺往生院祇王寺として再興されました。現在,本堂には祇王以下4人と清盛の像を安置し,境内には祇王らの墓とされる宝筐印塔(ほうきょういんとう)や清盛の供養塔と言われる五輪塔があり,祇王らの庵跡を示す石標が建てられています。


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