二条河原落書
文化史08

にじょうがわららくしょ
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落書とは

 落書は,時の権力者に対する批判や,社会の風潮に対する風刺などあざけりの意を含んだ匿名の文書のことで,平安初期からその例を見ることが出来ます。詩歌形式のものを落首(らくしゅ)ともいいます。

 建武元(1334)年8月,鴨川の二条河原(中京区二条大橋附近)に掲示されたといわれるのが二条河原落書です。長歌の形式をとるので落首であるともいえます。前年に成立した建武政権の混乱ぶりや,不安定な世相を,風刺をたっぷりと籠めて描いているところに特徴があります。

 この落書中の言葉によると,作者は「京童」(きょうわらべ)であるとされています。「京童」とは当時の京都市民をあらわす名称ですが,内容からかなりの教養人の手によるものであると推定され,建武政権の論功行賞に不満を持つ下層の公家などが作者に想定されます。

二条河原落書 (内閣文庫蔵『建武記』)
建武の新政

 足利尊氏や新田義貞,楠木正成らの武力によって鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇(1288〜1339)は,正慶2(1333)年,新政権を樹立し,天皇親政の諸政策を積極的に進めました。翌年,年号を建武に改めたので,後醍醐天皇の政治を建武の新政といいます。

 後醍醐天皇は,中央の機関として訴訟全般の処理にあたった記録所(きろくしょ)や,乱後の恩賞の公正をはかるため設置された恩賞方,所領に関する訴訟を処理していた雑訴決断所(ざっそけつだんしょ),主として京都(実質は禁裏のみ)の警備にあたった武者所(むしゃどころ)などを置き,地方においては,守護制度によって有名無実となっていた国司制度を政治の中核としました。

建武政治への不満

 後醍醐天皇はこうした体制のもと,徹底した天皇中心の政治を実現しようとしましたが,武家所領の承認(本領安堵<ほんりょうあんど>)は天皇の命令によらなければならないといった政策は,武家社会の伝統と特権を無視するものであり,武士らの後醍醐政権に対する不満と不信を生みました。

 また,大内裏の造営の費用を武士に負担させようとしたり朝廷の恩賞が天皇側近によるえこひいきと賄賂によって左右されるなど,武家にとって不公平なことが多く,幕府政治の再興をのぞむ者がしだいにふえていきました。

富小路内裏跡(とみのこうじだいりあと) 中京区富小路通夷川下る西側
二条富小路内裏跡

 この落書が二条河原に掲げられたのは,後醍醐天皇の政治の拠点である内裏が二条富小路にあったからです。

 この富小路内裏はもともと,鎌倉時代に太政大臣であった西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の邸宅があった場所で,それ以前には貞永元(1232)年頃に後堀河上皇が住んでいました。以後もしばしば天皇や上皇の住居として利用され,正元元(1259)年には後深草天皇が富小路内裏に住居を移し,その皇太子であった伏見天皇が弘安10(1287)年にこの地で即位しています。

 文保2(1318)年に即位した後醍醐天皇によって富小路内裏は,建武政権の中心地となりますが,建武3(1336)年,反乱を起こした足利尊氏の軍勢によって焼失しました。

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二条河原落書の全文

 この二条河原落書は,八五調と七五調をとりまぜた物尽し形式をとり,『建武年間記』(建武元年から3年までの諸記録,『建武記』)のなかにみることができます。全文は『群書類従』雑部(続群書類従完成会)や『日本思想大系 中世政治社会思想』(岩波書店)に収められています。

 なお,左の落書中の太字部分は後に説明を載せています。

口遊(くちずさみ) 去年八月二条河原落書云々 元年歟

此比(このころ)都ニハヤル物

     夜討強盗謀綸旨(にせりんじ)

召人(めしうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)

     生頸(なまくび)還俗(げんぞく)自由出家

俄大名(にわかだいみょう)迷者

     安堵恩賞虚軍(そらいくさ)

本領ハナルヽ訴訟人

     文書(もんじょ)入タル細葛(ほそつづら)

追従(ついしょう)讒人(ざんにん)禅律僧

     下克上(げこくじょう)スル成出者(なりづもの)

器用堪否(かんぷ)沙汰モナク

     モルヽ人ナキ決断所

キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ

     持モナラハヌ笏(しゃく)持テ

内裏マシハリ珍シヤ

     賢者カホナル伝奏ハ

我モ々々トミユレトモ

     巧ナリケル詐(いつわり)ハ

ヲロカナルニヤヲトルラム

     為中美物(いなかびぶつ)ニアキミチテ

マナ板烏帽子(えぼし)ユカメツヽ

     気色メキタル京侍

タソカレ時ニ成ヌレハ

     ウカレテアリク色好(いろごのみ)

イクソハクソヤ数不知(しれず)

     内裏ヲカミト名付タル

人ノ妻鞆(めども)ノウカレメハ

     ヨソノミル目モ心地アシ

尾羽ヲレユカムエセ小鷹

     手コトニ誰モスエタレト

鳥トル事ハ更ニナシ

     鉛作ノオホ刀

太刀ヨリオホキニコシラヘテ

     前サカリニソ指ホラス

ハサラ扇ノ五骨

       ヒロコシヤセ馬薄小袖

日銭ノ質ノ古具足

      関東武士ノカコ出仕

下衆(げす)上臈ノキハモナク

     大口(おおぐち)ニキル美精好(せいごう)

鎧直垂(ひたたれ)猶不捨(すてず)

     弓モ引ヱヌ犬追物(いぬおうもの)

落馬矢数ニマサリタリ

     誰ヲ師匠トナケレトモ

遍(あまねく)ハヤル小笠懸(こがさがけ)

     事新キ風情也

京鎌倉ヲコキマセテ

     一座ソロハヌエセ連歌

在々所々ノ歌連歌

     点者(てんじゃ)ニナラヌ人ソナキ

譜第非成ノ差別ナク

     自由狼藉ノ世界也

犬田楽(いぬでんがく)ハ関東ノ

     ホロフル物ト云ナカラ

田楽ハナヲハヤル也

     茶香十(ちゃこうじっしゅ)ノ寄合モ

鎌倉釣ニ有鹿ト

     都ハイトヽ倍増ス

町コトニ立篝屋(かがりや)

     荒涼五間板三枚

幕引マワス役所鞆

     其数シラス満々リ

諸人ノ敷地不定(さだまらず)

     半作ノ家是多シ

去年火災ノ空地共

     クソ福ニコソナリニケレ

適(たまたま)ノコル家々ハ

     点定(てんじょう)セラレテ置去ヌ

非職ノ兵仗ハヤリツヽ

     路次ノ礼儀辻々ハナシ

花山桃林サヒシクテ

     牛馬華洛ニ遍満ス

四夷ヲシツメシ鎌倉ノ

     右大将家ノ掟ヨリ

只品有シ武士モミナ

     ナメンタラニソ今ハナル

朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ

     夕ニ賞アル功臣ハ

左右ニオヨハヌ事ソカシ

     サセル忠功ナケレトモ

過分ノ昇進スルモアリ

     定テ損ソアルラント

仰テ信ヲトルハカリ

     天下一統メツラシヤ

御代ニ生テサマ々々ノ

     事ヲミキクソ不思義共

京童ノ口スサミ

     十分一ソモラスナリ

還俗(げんぞく)

 還俗とは僧侶が俗人にかえることを意味し,復飾(ふくしょく)ともいいます。

 古代中世を通じて,還俗とは,僧尼が罪などを犯すと俗名などがつけられ僧尼身分をうばわれることをいい,官人にとっての除名に類するものでしたが,南北朝時代以降,打ち続く戦乱は僧の自発的還俗をもたらします。

 その最たるものが後醍醐天皇の皇子で天台座主の大塔宮(おおとうのみや)尊雲(そんうん)法親王でした。尊雲法親王は還俗して護良(もりよし)と名乗り,建武新政権樹立に奔走し,征夷大将軍となりました。

為中美物(いなかびぶつ)

 新政府発足当時,後醍醐天皇から本領安堵の綸旨を得るため都鄙の往還が激しくなり,これによって田舎(為中)の料理が洛中に流入したと思われます。

 美物とは,おいしい料理あるいは食物のことを指し,特に魚・鳥のおいしいものをいいます。

ハサラ(ばさら)扇(おうぎ)

 鎌倉幕府滅亡以来,変化し続ける世相に,現世謳歌の風潮が蔓延するなか,華美な衣装などで目立つ様子を「ばさら」(婆娑羅)と呼びました。「ばさら」とはサンスクリットのバジラ(Vajra=金剛)から転訛した言葉で,南北朝時代には,近江の豪族の佐々木高氏(ささきたかうじ,導誉<どうよ>,1306〜73)に代表される熱狂的なばさら愛好の武家などが出現します。

 また,派手で奇矯な行動や風体をはじめ技工・器具・装身具類にもばさら名を付けて呼称され,扇・団扇・絵馬などに描いた粗放な風流絵を「ばさら絵」といい,ばさら絵を描いた派手な扇を「ばさら扇」といいます。

 この落書で見えるように,ばさら扇は,細骨五本を片面張りとした蝙蝠(かわほり,開いた形が蝙蝠<こうもり>の翼をひろげた形に似ているため)の地紙にばさら絵を施したもののことを指します。

大口(おおぐち)ニキル美精好(びせいごう)

 大口とは正装の袴にはき籠める下袴の一種で,四幅仕立てを原則とし,裾に括り緒を入れず,口広に見えることによりこの名称が付いたとされています。この大口には公家用(赤大口)・武家用(後張の大口)・幼年用(前張の大口)などの各種があります。

 精好とは,縦糸・横糸共に練糸,もしくは横糸を生糸で織り出した厚手の美しい絹織物のことです。この大口に精好地を用い,上の袴を省略して着用することを「ばさら姿」といいます。

犬追物(いぬおうもの)

 犬追物とは,騎馬で走狗を追物射(おものい)にする武芸のことで,鎌倉時代から室町時代にかけての武士たちが必須とした武芸の一種とされ,流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)とあわせて馬上三物(ばじょうみつもの)といわれています。

 騎射の練習は動物を追物射にすることが第一であり,『吾妻鏡』によると,寿永元(1182)年以来,牛追物の興行が認められ,犬追物はこれに代わって貞応元(1222)年より行われるようになりました。

点者(てんじゃ)

 点者とは,和歌・連歌などで他人の作品を評価するもののことで,その部門の専門的な知識技術など全般にわたって権威があり,かつ公平な態度のとれる長老・宗匠格の指導者がその任につきます。

茶香十(ちゃこうじっしゅ)
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江戸時代の香道具(高津古文化会館蔵)

 10種類の茶を会衆に飲ませて,茶の銘柄を当てさせる闘茶の遊戯を十種茶といい,同じく10種の香を嗅ぎ分けさせる遊戯を十種()香といいます。「十」は厳密にいうと茶に用いませんが,ここでは「十種」と同音で,茶・香の両方にかけたものと考えられます。

篝屋(かがりや)

 篝屋とは,鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経(よりつね)が上洛した際,京都市中の治安維持のため,辻々に篝火をたくことを定めた命令が出され,その役を御家人らにわりあてたことにはじまります。篝屋の構造は落書が記しているように,五間・三間の板屋で楯を並べ垂幕(たれまく)を廻した形であったらしく,『一遍上人絵伝』に篝屋の絵が描かれています。


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