六波羅
都市史09

ろくはら
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六波羅ってどんなところ?

 六波羅は,古くは鴨川東岸,五条大路(現松原通)から七条大路一帯の地を指す地名。現在は東山区六原学区一帯の地名として用いられています。「六原」とも記され,古い地名である轆轤原(ろくろがはら)に由来するといわれますが,おそらく六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)「に因んだ名でしょう。「六波羅蜜」は仏教用語で六種類の修行を意味します。

 六波羅は,古くは葬送地鳥辺野(とりべの)への入口に当たります。珍皇寺(ちんこうじ)の前が賽河原(さいのかわら)と伝えられ,彼岸(ひがん,あの世)と此岸(しがん,この世)の境界の地とされていました。そのため,古くから信仰の場となり,空也(くうや)が創建した六波羅蜜寺や,小野篁(おののたかむら)の冥土(めいど)通い伝承をもつ珍皇寺などの寺院や御堂が建てられました。

 六波羅附近図。画面下部の大きな道路が五条通。○印で示したのが松原橋で,それから東へ清水寺まで松原通がのびている。画面中央やや右寄りに学校のマークがあり,その南に寺院がある。これが六波羅蜜寺。「霊洞院庭園」という文字があるが,その「院」の字の位置に珍皇寺がある。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。
平家と六波羅の関係は?

 12世紀初頭,平清盛(たいらのきよもり)の祖父正盛(まさもり)が珍皇寺附近に邸宅を構え,御堂(常光院)を建立したのが始まりです。清盛の代に至り,六波羅は平家一門の邸宅が軒を連ねる所になりました。

 平家の邸宅は一帯の町名になごりを留めています。多門町は六波羅邸の東に向かって開かれた惣門にちなみ,門の脇に平教盛(たいらののりもり)邸の門脇殿(かどわきどの,門脇町)があったとされます。三盛町(みつもりちょう,旧泉殿町<いずみどのちょう>)には清盛の泉殿があり,その中に常光院とその鎮守社がありました。常光院には京の百塔巡礼の一とされた塔があり,鎮守社には安芸宮島から勧請した伊津伎島(いつきしま,厳島<いつくしま>)神が祀られていました。南方の池殿(池殿町)は,清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)の邸宅で,息子頼盛に引き継がれました。清盛の娘徳子が安徳天皇を出産したのもこの邸宅でした。

 平家の拠点六波羅邸と清盛の邸宅西八条殿(にしはちじょうどの,現下京区梅小路公園<うめこうじこうえん>附近)はともに交通の要衝に築かれました。六波羅は,小松谷(こまつだに)を経て山科に抜ける道筋にあり,東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口に当ります。平安時代末以降,武家の地として発展することになりました。

 寿永2(1183)年,平家一門が安徳天皇(あんとくてんのう)と神器を奉じて都を落ちる際,西八条殿とともに六波羅邸に自ら火を放ち,豪壮な邸宅は灰燼に帰しました。

六波羅探題って何?

 六波羅探題とは鎌倉幕府が京都における政治拠点として設けた出先機関,およびその長を指し,執権(しっけん)・連署(れんしょ)に次ぐ幕府の重職でした。

 平家都落ちの後,六波羅の地は源頼朝(みなもとのよりとも)に与えられました。文治元(1185)年,北条時政(ほうじょうときまさ)が頼朝の使者として上洛して以来,京都守護の庁舎がこの地に築かれ,頼朝や御家人の宿舎も建てられました。

 承久の乱(じょうきゅうのらん,1221年)で,幕府軍を率いて入京した北条泰時・時房は,乱後も六波羅に留まり,乱後の処理や庶政に当たりました。これが六波羅探題の起源です。六波羅北方・南方各1名の探題が北条氏一門から選任されました。

 元弘3(1333)年,足利尊氏(あしかがたかうじ)らに攻められ,六波羅探題は陥落しました。室町時代以降の六波羅は,芸能や一服一銭の茶売りで賑わう,信仰と遊興の地に変化していきました。

信仰の地・六波羅 六道詣りと幽霊飴

 毎年8月15日の盂蘭盆(うらぼん)では,先祖の精霊(しょうりょう)を迎えて供養が行われますが,京都では,その少し前の8月7日から10日の間に精霊を迎えるため,珍皇寺(ちんこうじ)などに参詣する精霊迎え(六道詣り)が行われます。

 この間,珍皇寺は水塔婆を納め,迎え鐘をつき,高野槙(こうやまき)の葉を求めて精霊迎えする人で賑わいます。迎え鐘とは,境内にある銅鐘のことで,その音が冥土にまで届き,亡き人がこの響きに応じてこの世に呼び寄せられると信じられました。また,精霊は槙(まき)の葉に乗って冥土(めいど)から家に戻ってくるとされるため,これを持ち帰り,13日には仏壇に供えられます。

 珍皇寺門前の飴屋(現在は六波羅蜜寺の北に移転)で売られる飴は六波羅の名物の一つです。この飴(あめ)は子育ての「幽霊飴」(ゆうれいあめ)と呼ばれ,次のような伝説があります。

赤ん坊を抱いた女が毎日三文(さんもん)の飴を買いにきた。不審に思った店の人が女のあとをつけていくと,鳥辺野墓地でその姿が消えた。この話を聞いた近くの寺の住職は,最近臨月で亡くなった女性の墓で念仏を唱えた。すると,土の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。掘り起こすと,飴をしゃぶる赤ん坊がいた。死してなお子を思う母の執念が,幽霊となって子を養ったのである。

 同じような伝説は日本各地に伝えられ,その多くは名僧の誕生譚として伝えられています。

清水(きよみず)への参詣道

 六波羅の地は清水寺への参詣道でした。平安時代末期にできた歌謡集『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)には「何れか清水へ参る道,京極くだりに五条まで,石橋よ,東の橋詰,四つ棟,六波羅堂,愛宕寺,大仏深井とか,それを打ち過ぎて八坂寺」と記され,鴨川に架かる五条の石橋を渡るとすぐに六波羅蜜寺があったことを歌っています。なお,当時の五条通はいまの松原通,つまり珍皇寺の前の通りです。

 また,16世紀に作られた「清水寺参詣曼荼羅」(きよみずでらさんけいまんだら)にも,信仰を集めた六波羅蜜寺の地蔵堂が描かれています。

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珍皇寺(ちんこうじ) 東山区東大路通松原西入小松町

珍皇寺
 臨済宗建仁寺派。本尊は伝教大師(最澄)作と伝える薬師如来。創建については(1)承和3(836)年,山代淡海(やましろのおうみ)開基,(2)空海の師大安寺慶俊による創建,(3)鳥部(とりべ)氏の建立など諸説あります。所領は鳥部郷(とりべごう)・八坂郷(やさかごう)・錦部郷(にしごりごう)の三郷にわたり,10世紀末ごろには,近隣の大寺社としばしば境界相論を起こしていました。

 珍皇寺は元来,東寺(とうじ)の末寺でしたが,貞治3(1364)年東寺から離れ,建仁寺(けんにんじ)塔頭(たっちゅう)大昌院(だいしょういん)の末寺となり,のち合併されました。明治43(1910)年ふたたび独立。

小野篁卿旧跡(おののたかむらきょうきゅうせき) 東山区松原通東大路西入轆轤町(珍皇寺前)

 平安前期の貴族小野篁(802〜52)は博識多才をもって知られる人物ですが,奇行が多く,さまざまな伝説の持ち主です。死後,閻魔庁(えんまのちょう)に仕え,その亡霊が珍皇寺門前の六道の辻からに冥府(めいふ)に通ったという伝説が生じました。この伝説に基づき「小野篁卿旧跡」の石標が珍皇寺前に建てられています。

 寺内には篁像を安置する篁堂(たかむらどう)があり,本堂背後の庭内には,篁が冥土通いに利用したと伝える井戸もあります。

 なお,閻魔庁への往路である六波羅を「死の六道」と呼び,現世への帰路である上嵯峨(かみさが)を「生(しょう)の六道」と呼びます。

 地獄で苦しむ亡者のために罪を受けているという地蔵尊に出会った篁は,感激して嵯峨大覚寺(だいかくじ)門前から現世に戻ると福生寺(ふくおじ)を建立して地蔵尊を祀ったと伝えられています。寺は廃寺になりましたが,地蔵尊は薬師寺(右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)に伝えらました。現在この薬師寺には福生寺の跡を示す「生の六道 小野篁公遺跡」の石標が建てられています。

六道の辻(ろくどうのつじ) 東山区松原通東大路西入轆轤町(珍皇寺前)

 六道とは,仏語で衆生(しゅじょう)が生前の業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち,地獄・餓鬼・畜生・阿修羅(あしゅら)・人間・天上のことです。

 六道の辻は,六道へ通じる道の分かれる所の意で,一般的に珍皇寺門前のT字路をさします。小野篁が冥府との往復を果たしたという伝説から,この辺りが冥界への入口「六道の辻」と称されました。珍皇寺内と西福寺前に六道の辻を示す石標が建てられています。

 西福寺は,空海が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て,自作の土仏地蔵尊(六道の地蔵尊)を祀ったことに始まると伝えられています。

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ) 東山区松原通大和大路東入二丁目下る轆轤町
六波羅蜜寺

 真言宗智山派。西国三十三番霊場第十七番札所。応和3(963)年,空也(くうや)が建立した西光寺(さいこうじ)にはじまります。貞元2(977)年六波羅蜜寺と改称,天台別院となりました。

 空也がはじめたと伝える踊念仏(おどりねんぶつ)の本縁地として,この寺は庶民の信仰を集めました。近年の発掘調査では,康治元(1142)年沙弥西念が埋納した「仏教供養目録」や,五輪塔をかたどった泥塔2000点余が出土し,平安後期の庶民信仰を知る大変貴重な資料として国の重要有形民俗文化財に指定されました。

 本堂は承安3(1173)年に炎上,すぐに再建されましたが,その後もたびたび焼失。貞治年間(1362〜68),室町将軍足利義詮の命で大修理が加えられました。現在の本堂は貞治2(1363)年建立(重要文化財)。文禄4(1595)年青蓮院(しょうれんいん)に属し,真言宗寺院となりました。

 本尊の十一面観音像は空也作と伝えられ,空也上人立像は運慶(うんけい)の子康勝(こうしょう)作(いずれも重要文化財)。口から吹き出す六体の小仏は,南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の六字名号(ろくじみょうごう)にちなみます。また,平清盛像と伝える運慶派仏師の手になる彫刻があります。正月の皇福茶(おうぶくちゃ),8月7〜10日の盂蘭盆行事,万灯会,12月13〜31日のかくれ念仏(空也踊念仏<くうやおどりねんぶつ>)などの行事は有名。

平氏六波羅第(へいしろくはらてい)・六波羅探題府址(ろくはらたんだいふあと) 六波羅蜜寺内

 現在「平氏六波羅第・鎌倉幕府六波羅探題址」の石標が建てられている付近一帯には,都落ちの際に焼失した平氏一門の邸宅六波羅第と,その後,鎌倉幕府によって設置された六波羅探題がありました。

 五条末(現松原通)から六条坊門末(現五条通)には六波羅探題の北方が,六条坊門末から六条末(現正面通)には南方が置かれていました。

愛宕念仏寺跡(おたぎねんぶつじあと) 東山区松原通大和大路東入北側弓矢町

 天台宗延暦寺派で,本尊は六波羅観音の名で庶民の信仰を集めた千手観音。

 念仏寺は,醍醐天皇の勅願で,延喜11(911)年建立されたと伝えます。開基の千観(せんかん)は空也の教えを受け熱心に念仏を勧め,念仏上人とも呼ばれたので念仏寺の称が生じたといわれています。

大正11(1922)年嵯峨鳥居本(現右京区)に移転しました。六波羅には旧地を示す石標が建てられています。


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